経済危機というこの「不運」を生き抜く
相変わらず金融危機の先が見えない。その中で、影響は次第に実物経済に及んでいる。つまり、わたしたちの身近な生活にひたひたと迫ってきている。今回のサブプライムローンに端を発する金融危機を、それこそグリーンスパンの言うように100年単位の視点で分析することも重要だが、それ以上に切実なのが、わたしたちの生活の問題である。とりあえずわたしたちの生活はどうなるのか? どう生きて行けばいいのか?
■わたしたちの小さな生活を直撃する金融危機
先日新聞に、大型商業施設の総菜屋で働いていた56歳のパート女性が突然解雇されたという記事が出ていた。リーマンの経営破綻に伴いそのグループ企業からの運転資金融資が停止されたため、テナント施設が閉鎖に追い込まれたのである。「海の向こうの話だと思っていたのに、まさかわが身に降りかかってくるとは」。
このパート女性の言葉は、まさに事の本質を突いている。リーマン・ブラザーズなど、彼女にとって別世界の存在だったであろう。アメリカの投資銀行と総菜屋のパート女性。およそ似つかわしくない。しかし、そのリーマンの破綻によって、彼女はささやかなパート職を失ったのだ。グローバルな金融の巨大なうねりが、わたしたちの小さな生活を直撃する。それが今わたしたちが直面しようとしている(すでにしている)現実である。
わたしもサラリーマンだ。残念ながら、他人事ではない。テレビに出てくる「何とかかんとかのチーフエコノミスト」といった人たちとは違い、いつ直撃されるかわからない。だから、以下のことは、誰かに対してというよりも、自分への激励のつもりで書く。
とは言っても、この不況に資産運用をどうすべきかとか、金融危機の影響からいかに逃れるかとか、そんな都合のいい話を書くつもりはないし、そんな知識も能力もない。結局、金融危機になろうが、不況になろうが、人間生きていくしか仕方がない。耐え、受け入れ、生き抜いていく。自分への激励と言っても、そんな話だ。
何よりも重要なことは、想定水準をどこに置くか、だ。そもそも、不況はあってはならないことなのか、それともあって当然のことなのか? 金融危機は避けるべきことだったのか、それとも避け得ないことだったのか? どちらの立場に立つか、これが大きなポイントとなる。つまり、避け得ないのなら、ともかく生き抜く以外ないのである。
■いまは資本主義社会、経済危機は避け得ない
90年代以降、アングロサクソン系の国々(要するに米英)は、実物経済の疲弊に伴い、金融経済へと大きく転換した。それまで実物経済をまわしていくための道具であった金融経済を、それだけで富を生むよう実物経済から独立させた。実物経済で貿易収支が赤字でも全然かまわない。金融商品でマネーを集め、増殖させればいい。レバレッジをかけることにより、実物経済からはるかに遊離した仕方で、マネーを増殖させたのである。
とすれば、そもそも金融経済の本質にはバブルがある。およそ、金融が自己目的化し、実物経済からかけ離れて膨れ上がる様をバブルと言うなら、バブルとは金融経済の別名と言ってよく、その構造の中に組み込まれている。
最近、新聞やテレビで、よく「果てしない人間の欲望」が批判的に言及される。本来、ローンを借りられる経済水準にない人たち(つまり、サブプライム)に、何だかんだうまいことを言って金を貸し、それを金融商品の中にばら撒いて、レバレッジをきかし、大もうけをたくらんだ輩等々の際限のない欲望が批判されているわけである。
しかし、資本主義とは本来金儲けを信条としているのではなかったか? 資本主義の前提とは、人間が限りない欲望に動かされて、無限に資本を蓄積しようとすることを肯定することにあったのではなかったか? そうであるなら、実物経済がだめになったら別の方法で金を手に入れようと思うのも当然だし、いったん金融経済という打出の小槌を手にした以上、そこからトコトン金を引き出そうとするのも当然だ。ベルリンの壁が崩壊したとき、資本主義の勝利をあれほど謳歌しておいて、いまさら何を言っているのだ。
もちろん、だからこそ、ケインズ的なコントロールが不可欠だし、資本主義は本来そうした制御機能を持ってしかるべきだという議論もあろう。実際、いまヨーロッパ諸国は、アメリカ的グローバル化に対し、国際経済秩序の仕組みを導入しようとヘゲモニー争いをしている。しかし、裏を返せば、そうした制御機能を必要とするほど、資本主義の欲望は際限がないのだし、さらに言えば、そうした制御機能を何度設けても、そのたびに無限の資本蓄積衝動はそれを打ち破ってあふれ出てきてしまうのである。
というわけで、こうした金融危機は、起こって何の不思議もない。むしろ、それは折り込み済みであってしかるべきだ。資本主義の時代に生きている以上、こうした危機はあって当然だし、今後も繰り返し起こるだろう。戦国時代に生まれたら戦は避けられないように、わたしたちは経済上の危機を避けることはできない。わたしたちの人生においてそれは想定内のはずなのである。
■幸福も不幸もすべて自分の人生として生き抜く
ならば、どうしたらいいのか? 経済的な危機とは、わたしたちの身近な生活に関して言うなら、お金がなくなるということである。年収が減るということである。場合によっては収入が途絶えるということである。それを織り込み済みにするとは、どういうことか。
まず、現実を受け入れることである。たとえば、職を失ったとき、あってはならないことが起こったと考えるのではなく、生きてりゃそらそんなこともあるだろう、と考えることである。決して起こるべきではない不幸に襲われたと考えるのではなく、人生にありがちな経験をしているに過ぎないと考えることである。しかし、そう考えたからって、どうなるというのか? そう思ったって、お金が増えるわけでもなし、意味ないではないか? しかし、ここに生きることの根幹がかかわっているのである。
想定水準が、「幸福であって当然」という人と、「不幸であっても当然」という人とでは、人生はまったく違うものとなろう。「幸福であって当然」となれば、少し不幸な目に会うと、人生が大きく損なわれたと感じるだろう。なにせ、幸福が当たり前なのだ。ちょっとした不幸にも大きな失望を感じる以外ない。いきおい、いつも幸福に囲まれなければ生きて行けない。ちょっとした不幸や不運にも戦々恐々、たえずビクついていなければならないことになろう。
それに対し、想定水準が「不幸」にあれば、多少の苦境は織り込み済みということになる。「それがどうした。人生そんなもんさ」というわけである。実際、生きていればいろいろある。浮き沈みもある。苦しいことや辛いこともある。当然ではないか。わたしたちは天使に生まれついたのではない。生身の人間に生まれ落ちたのだ。ならば、このどうしようもなく不完全な生き物がやらかす様々なろくでもなき事に出くわすのも、別段不思議なことではない。
幸福と不幸と単純に二分法で分けることもできないだろうが、しかし人生は良いことと悪いことから出来上がっていると言っていいだろう。その両方が人生だ。良いことだけつまみ食いしようたって、そうはいかない。いや、それでは結局人生半分しか生きたことにならない。人として生まれた以上、人生を味わいつくすべきだ、とわたしは思う。
良くないことや苦境も、他でもない、わたしの人生である。逃げもせず、隠れもせず、受け入れ、生き抜き、生き切ればいい。収入が大幅に減ったなら、徹底的に切り詰め、節約し、生活水準を下げ、といった工夫を懸命にやり切ればいい。職を失ったら、求人を見つけ、新しい職を探し、駆けずり回ればいい。それでもだめなら、生活保護を取れるよう役所と掛け合えばいい。役所が給付を拒否するなら、その不当を訴え、同じ境遇の人たちとともに闘えばいい。
そこにこそ、生きる醍醐味があるのだ。そこにこそ、生きるということの実感があるのだ。「幸福」にしがみ付くようなひ弱な生き方ではなく、「幸福」も「不幸」も、「幸運」も「不運」も、すべてを受け止め、強靭に生き抜いていくことにこそ、本当の希望があるように思う。
とは言っても、はじめに書いたように、これは自分への激励でもある。「なら、本当にお前はそんなふうにできるのか」、と問われれば、正直、いささか心もとない。失業などしようものなら、真っ先に意気消沈するかもしれない。しかし、それでもこうした考え方で自分を鼓舞し続けて行きたいと思う。このろくでもなき資本主義の時代を、金持ちの欲望で大きく動かされるこの時代を、最後まで味わいつくし、生き抜き、見届けたいと思うのである。


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