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2008年10月

2008年10月30日 (木)

経済危機というこの「不運」を生き抜く

相変わらず金融危機の先が見えない。その中で、影響は次第に実物経済に及んでいる。つまり、わたしたちの身近な生活にひたひたと迫ってきている。今回のサブプライムローンに端を発する金融危機を、それこそグリーンスパンの言うように100年単位の視点で分析することも重要だが、それ以上に切実なのが、わたしたちの生活の問題である。とりあえずわたしたちの生活はどうなるのか? どう生きて行けばいいのか?

■わたしたちの小さな生活を直撃する金融危機

先日新聞に、大型商業施設の総菜屋で働いていた56歳のパート女性が突然解雇されたという記事が出ていた。リーマンの経営破綻に伴いそのグループ企業からの運転資金融資が停止されたため、テナント施設が閉鎖に追い込まれたのである。「海の向こうの話だと思っていたのに、まさかわが身に降りかかってくるとは」。

このパート女性の言葉は、まさに事の本質を突いている。リーマン・ブラザーズなど、彼女にとって別世界の存在だったであろう。アメリカの投資銀行と総菜屋のパート女性。およそ似つかわしくない。しかし、そのリーマンの破綻によって、彼女はささやかなパート職を失ったのだ。グローバルな金融の巨大なうねりが、わたしたちの小さな生活を直撃する。それが今わたしたちが直面しようとしている(すでにしている)現実である。

わたしもサラリーマンだ。残念ながら、他人事ではない。テレビに出てくる「何とかかんとかのチーフエコノミスト」といった人たちとは違い、いつ直撃されるかわからない。だから、以下のことは、誰かに対してというよりも、自分への激励のつもりで書く。

とは言っても、この不況に資産運用をどうすべきかとか、金融危機の影響からいかに逃れるかとか、そんな都合のいい話を書くつもりはないし、そんな知識も能力もない。結局、金融危機になろうが、不況になろうが、人間生きていくしか仕方がない。耐え、受け入れ、生き抜いていく。自分への激励と言っても、そんな話だ。

何よりも重要なことは、想定水準をどこに置くか、だ。そもそも、不況はあってはならないことなのか、それともあって当然のことなのか? 金融危機は避けるべきことだったのか、それとも避け得ないことだったのか? どちらの立場に立つか、これが大きなポイントとなる。つまり、避け得ないのなら、ともかく生き抜く以外ないのである。

■いまは資本主義社会、経済危機は避け得ない

90年代以降、アングロサクソン系の国々(要するに米英)は、実物経済の疲弊に伴い、金融経済へと大きく転換した。それまで実物経済をまわしていくための道具であった金融経済を、それだけで富を生むよう実物経済から独立させた。実物経済で貿易収支が赤字でも全然かまわない。金融商品でマネーを集め、増殖させればいい。レバレッジをかけることにより、実物経済からはるかに遊離した仕方で、マネーを増殖させたのである。

とすれば、そもそも金融経済の本質にはバブルがある。およそ、金融が自己目的化し、実物経済からかけ離れて膨れ上がる様をバブルと言うなら、バブルとは金融経済の別名と言ってよく、その構造の中に組み込まれている。

最近、新聞やテレビで、よく「果てしない人間の欲望」が批判的に言及される。本来、ローンを借りられる経済水準にない人たち(つまり、サブプライム)に、何だかんだうまいことを言って金を貸し、それを金融商品の中にばら撒いて、レバレッジをきかし、大もうけをたくらんだ輩等々の際限のない欲望が批判されているわけである。

しかし、資本主義とは本来金儲けを信条としているのではなかったか? 資本主義の前提とは、人間が限りない欲望に動かされて、無限に資本を蓄積しようとすることを肯定することにあったのではなかったか? そうであるなら、実物経済がだめになったら別の方法で金を手に入れようと思うのも当然だし、いったん金融経済という打出の小槌を手にした以上、そこからトコトン金を引き出そうとするのも当然だ。ベルリンの壁が崩壊したとき、資本主義の勝利をあれほど謳歌しておいて、いまさら何を言っているのだ。

もちろん、だからこそ、ケインズ的なコントロールが不可欠だし、資本主義は本来そうした制御機能を持ってしかるべきだという議論もあろう。実際、いまヨーロッパ諸国は、アメリカ的グローバル化に対し、国際経済秩序の仕組みを導入しようとヘゲモニー争いをしている。しかし、裏を返せば、そうした制御機能を必要とするほど、資本主義の欲望は際限がないのだし、さらに言えば、そうした制御機能を何度設けても、そのたびに無限の資本蓄積衝動はそれを打ち破ってあふれ出てきてしまうのである。

というわけで、こうした金融危機は、起こって何の不思議もない。むしろ、それは折り込み済みであってしかるべきだ。資本主義の時代に生きている以上、こうした危機はあって当然だし、今後も繰り返し起こるだろう。戦国時代に生まれたら戦は避けられないように、わたしたちは経済上の危機を避けることはできない。わたしたちの人生においてそれは想定内のはずなのである。

■幸福も不幸もすべて自分の人生として生き抜く

ならば、どうしたらいいのか? 経済的な危機とは、わたしたちの身近な生活に関して言うなら、お金がなくなるということである。年収が減るということである。場合によっては収入が途絶えるということである。それを織り込み済みにするとは、どういうことか。

まず、現実を受け入れることである。たとえば、職を失ったとき、あってはならないことが起こったと考えるのではなく、生きてりゃそらそんなこともあるだろう、と考えることである。決して起こるべきではない不幸に襲われたと考えるのではなく、人生にありがちな経験をしているに過ぎないと考えることである。しかし、そう考えたからって、どうなるというのか? そう思ったって、お金が増えるわけでもなし、意味ないではないか? しかし、ここに生きることの根幹がかかわっているのである。

想定水準が、「幸福であって当然」という人と、「不幸であっても当然」という人とでは、人生はまったく違うものとなろう。「幸福であって当然」となれば、少し不幸な目に会うと、人生が大きく損なわれたと感じるだろう。なにせ、幸福が当たり前なのだ。ちょっとした不幸にも大きな失望を感じる以外ない。いきおい、いつも幸福に囲まれなければ生きて行けない。ちょっとした不幸や不運にも戦々恐々、たえずビクついていなければならないことになろう。

それに対し、想定水準が「不幸」にあれば、多少の苦境は織り込み済みということになる。「それがどうした。人生そんなもんさ」というわけである。実際、生きていればいろいろある。浮き沈みもある。苦しいことや辛いこともある。当然ではないか。わたしたちは天使に生まれついたのではない。生身の人間に生まれ落ちたのだ。ならば、このどうしようもなく不完全な生き物がやらかす様々なろくでもなき事に出くわすのも、別段不思議なことではない。

幸福と不幸と単純に二分法で分けることもできないだろうが、しかし人生は良いことと悪いことから出来上がっていると言っていいだろう。その両方が人生だ。良いことだけつまみ食いしようたって、そうはいかない。いや、それでは結局人生半分しか生きたことにならない。人として生まれた以上、人生を味わいつくすべきだ、とわたしは思う。

良くないことや苦境も、他でもない、わたしの人生である。逃げもせず、隠れもせず、受け入れ、生き抜き、生き切ればいい。収入が大幅に減ったなら、徹底的に切り詰め、節約し、生活水準を下げ、といった工夫を懸命にやり切ればいい。職を失ったら、求人を見つけ、新しい職を探し、駆けずり回ればいい。それでもだめなら、生活保護を取れるよう役所と掛け合えばいい。役所が給付を拒否するなら、その不当を訴え、同じ境遇の人たちとともに闘えばいい。

そこにこそ、生きる醍醐味があるのだ。そこにこそ、生きるということの実感があるのだ。「幸福」にしがみ付くようなひ弱な生き方ではなく、「幸福」も「不幸」も、「幸運」も「不運」も、すべてを受け止め、強靭に生き抜いていくことにこそ、本当の希望があるように思う。

とは言っても、はじめに書いたように、これは自分への激励でもある。「なら、本当にお前はそんなふうにできるのか」、と問われれば、正直、いささか心もとない。失業などしようものなら、真っ先に意気消沈するかもしれない。しかし、それでもこうした考え方で自分を鼓舞し続けて行きたいと思う。このろくでもなき資本主義の時代を、金持ちの欲望で大きく動かされるこの時代を、最後まで味わいつくし、生き抜き、見届けたいと思うのである。

2008年10月25日 (土)

なぜ、人と人との繋がりはかくも希薄なのか(韓国ドラマの視点から)

私はよく韓国ドラマを見るが、いつも感じることがある。登場する人物同士の絆が強く、それがごく自然なものとして描かれているということである。親子、友、仲間等、人と人との強い結びつきがほとんど疑われていない。そのことが逆に私たち日本人が生きている現実の希薄さを浮き立たせるように思える。

■ドラマ「このろくでなしの愛」に見る韓国での人間関係の濃密さ

たとえば、「このろくでなしの愛」。韓国のトップスター Rain とシン・ミナ共演のドラマである。Rain 演ずるカン・ボックは兄のミングと強い絆で結ばれている。そのミングの恋人、シン・ミナ演ずるチャ・ウンソクは芸能界に入り、スターとなる。あるとき、ウンソクと財閥の御曹司との婚約報道が流れたため、ミングは自殺を図り植物状態となる。カン・ボックは復讐のためチャ・ウンソクに近づいていくが、逆に二人が愛し合うようになる。カン・ボックは、兄との深い絆のため、チャ・ウンソクとの愛を生き抜くことができない。それでも二人は愛を捨てることができず、地獄へ踏み込んでいく・・・。

このドラマのポイントは、カン・ボックと兄ミングとの絆、チャ・ウンソクとの絆、いずれも他に代えがたいほど強く深いということである。どちらかが弱ければ、強い方の絆を選択すれば、それで終わる。兄との絆が強いなら、ウンソクとの愛を断念すればいい。ウンソクとの絆が強ければ、兄との関係を忘れればいい。ところが、どちらも他に代えられない。いずれも捨てることも選ぶこともできない。その狭間で苦しむ以外ない。ここにこのドラマの悲劇がある。

この濃密な関係性は、何か特殊で異常なものとして描かれているわけではない。むしろ、ごく自然なものとして描かれている。実際、カン・ボックを取り巻く他の人々との人間関係も実に強いものがある。カン・ボックが住んでいる家の人々の構成が私には最後までよくわからなかったのだが、ともかく兄以外に身寄りのないカン・ボックが、ボクシングジムのトレーナの家に同居しているのだが、その家族との関係(特にカン・ボックとの結婚を夢見るハン・ダジョンとの関係)も、一緒に同居している親友との関係も、みな暖かく、強く、深い。こうした人間関係に囲まれている中に、兄との関係も、ウンソクとの関係も存在しているのである。

カン・ボックは学歴もなく、整備工として、社会の周縁で生きている。時にけんかもする。いわば下流を生きる存在である。しかし、人間関係は羨ましいぐらい豊かだ。互いに気をかけ合い、心配し、互いのために行動し、共に笑い、共に怒り、共に泣く。それがごく自然なこととして、貧しい生活のすみずみにまで浸透している。

■秋葉原通り魔事件から見える日本における人間関係の解体

私は今年6月の秋葉原の通り魔事件を思い出す。加藤容疑者は「現実でもひとり、ネットでもひとり」と書き込んだが、この痛さを共有する人は多いだろう。まず、現実でひとり。彼女もいない、友達もいない、妻も子供もいない。加藤容疑者の場合、親とも絶縁状態だった。だから、ネットにのめりこむ。掲示板に注意を引くような書き込みを繰り返し、注目を集めようとする。しかし、それも次第に相手にされなくなる。ネットでもひとり、だ。

事件当時、派遣労働とそれをめぐる貧困の問題が大きく取り上げられ、枡添厚生労働大臣が日雇い派遣禁止をぶち上げたりして耳目を集めたが、実は、それ以上に重要なのはこの人間関係の驚くべき希薄さであると思う。たとえ日雇い派遣であったとしても、仲間がいて、気にかけてくれ、心配してくれ、一緒に飲んだり、笑ったり、怒ったりできていれば、少なくとも最悪の事態は避けられたのではないか。

この人間関係の希薄さは、派遣労働や貧困といった問題とだけリンクしているわけではない。場合によっては「勝ち組」だって、似たり寄ったりだ。携帯一つをとっても、韓国ドラマで描かれる状況は日本と大分違う。カンボックもウンソクも、その婚約者の御曹司も、携帯をよく使う。しかし、それは現実世界での濃密な人間関係を営むための補助的な道具に過ぎない。しかし、私たちの周りでは、逆に現実世界が携帯などのネット世界に引きずり込まれ、現実の人間関係が携帯やSNSなど、ネットによって変質させられている。たえず、ネットを通して人と繋がっていなければ不安で仕方がない。しかし、ネットで人と繋がっても、深い充足が得られるわけではない。ネットで繋がればつながるほど、不安が増し、不安が増せば増すほど、ネットで繋がらずにはいられない。私たちは、貧困や労働形態に関係なく、すべからく人間関係への脅迫と薄弱さに翻弄されているように思われる。

もちろん、ドラマでの話だ。実際の韓国がどうかは知らない。しかし、このような濃密な人間関係を前提にドラマが作られている(つまり、ドラマトゥルギーとしてこの人間関係がなければ、そもそもドラマが成り立たない)以上、わたしたちとは何がしか生活前提が異なると考えてもおかしくないだろう。

■新しいタイプの人間関係への模索

日本も60年代ぐらいまでは同様の生活前提があったと思う。それは、70年代以降急速に壊れていった。だからあの頃に戻ろう、と言うのではない。韓国のようになろうと言うのでもない。むしろ、希薄な人間関係を前提とした上で、いかにして新しいタイプの人間関係を構築していくか、それが模索されねばならないだろう。

それにしても、韓国も日本と同じ道をたどるのだろうか? それとも、いまのままの前提を維持し続けるのだろうか? 近代化のプロセスという視点から、私は関心を持って見ている。

2008年10月19日 (日)

「庶民」は政治をどのように評価するべきか

私たち「庶民」の一票で政治の方向性が決まる・・・。確かにそうであろう。しかし、私たちは本当にそんなに確かな政治的判断や政策評価ができるのだろうか?

先のエントリー「本当の構造改革は官僚政治改革」で「庶民的評価」という言葉を使った。庶民には庶民なりの、専門家とはまた違う、政策評価の仕方があるということである。なぜなら、庶民には庶民のリアリティがあるからである。それを意識していれば、私たちなりの政策評価ができる。

■「庶民」に本当に政策評価ができるのか?

「庶民」というのは、政治の専門家でもなく、いわゆる知識人(大学教授や評論家など)でもなく、また社会的優位者(お金持ちなど)でもないという程度の意味なのだが、その「庶民」が今の政権や政策をどのように評価すればいいかということがひとつの問題である。

なぜ、そんなことが問題となるのか? それは、政治や経済がきわめて複雑になった現代の社会では、素人が正しい方向性を洞察することが困難になっているからである。大げさに聞こえるかもしれないが、ここには民主主義の危機がある。

たとえば、経済政策ひとつをとっても、複雑な状況の中でどの政策をとることが本当に妥当かは、経済の専門家でなければ実際のところわからないであろう。いや、専門家の間でさえ、意見が割れる。であれば、ズブの素人に正しい経済政策など判断がつくわけがない。しかし、その素人が投票に行って、それぞれの経済政策を主張する政党のうち、どこかに一票を入れねばならないのである。これはもう、あてずっぽうと言う以外ない。

なら、現代の民主主義はあてずっぽうで回っているのか? 何もわからない愚かな「庶民」がわけもわからず投票をし、その結果、わけもわからずどこかの政党が政権をとり、妥当かどうかもわからないような政策を実行する。民主主義はもやはまともに機能していないというべきではないのか?

■そもそも国民主権とは何だったのか?

しかし、ちょっと考えてみよう。民主主義においては、主権者は国民である。私がさっきから「庶民」と言っているのは大筋この国民に相当する(完全に一致はしないが)。では、その場合「主権者」とは何を指しているのだろうか?

リンカーンではないが「人民の、人民による、人民のための政治」ということから言うなら、主権者には三つの要素がある。一つは「人民の」、つまり、国民によって構成された政治ということ。二つ目は「人民による」、つまり、国民の手でなされる政治ということ。三つ目が「人民のため」、つまり、国民のためになされる政治ということである。主権者であるとは、国民がこの三つの要素をあわせもつことを意味している。

一つ目の「国民によって構成された政治」は、議員による代表制によって実現されている(結局、官僚が支配しているじゃないか、という問題は、ここではおいておく)。二つ目の「国民の手でなされる政治」は、その議員を私たちが投票することによって実現されている。

で、重要なのは三つ目の「国民のためになされる政治」ということである。「庶民的評価」にとって、この「国民のため」に着目することが、とても重要なのである。

■「庶民」の生活のリアリティこそが政策評価の根本

なぜ重要か? これなら私たちにも実感を持って評価できるからである。今の一つひとつの政策が、本当に私たち庶民の役に立っているか、それによって生活は楽になったか、将来に希望が持てるようになったか、これなら私たちにだってわかる。

議員が言う政策の客観的根拠のことなどよくわからない。まして官僚が出してくる議案の細かい内容やその背景など全然わからない。テレビをつければ、ワイドショーのコメンテーターは論外としても、専門家がいろんなことを言っている。要するにさっぱりわからない。

しかし、それが本当に私たちのためになったかどうかだけはわかるのである。まず、事後評価としては相当正確にわかる。90年代に景気浮揚策として(つまり、これで景気は良くなる!と銘打って)何度も税金が投入されたが、まったく景気は良くならなかった。というか、悪化した。悪化したことは私たち庶民が肌身で思い知ったはずである。つまり、何兆円もの税金投入は、何の役にも立たなかったと切実な思いで言える。これは、私たちにだってはっきり評価できる。

事前評価だってある程度はできる。たとえば、高速道路を無料化しようと言われれば、運送業界の人には、それがどれだけのコストダウンになるかすぐピンとくるであろう。同時に、無料になれば混雑するだろうから、輸送効率が悪くなるな、といったことも予想できる。総合的に言ってどうか、と考えることができる。

政治は私たち「庶民」の役に立たなければ、何の意味もない。それが国民主権ということである。専門家が難しい言葉を並べてどれだけ効用を言い立てようが、最後に私たちが「本当に生活がよくなった」「将来に希望が出てきた」と思えなければ、その政策は完全に失敗なのだ。この点、原理的に言って、私たちの判断こそが、どの専門家よりも、もっとも正確なはずなのである。

庶民には庶民の生活のリアリティがある。このリアリティに立脚することだけが政治を政治たらしめ、民主主義を民主主義たらしめる。もちろん、「庶民」などと言っても、全然一体ではない。その人の置かれた状況によってリアリティも違うであろう。それをいかに統合的な国民意志として形成していくかという問題は別にある。

しかし、そうであったとしても、私たち一人ひとりが自分の庶民的なリアリティ(つまり、生活実感)に立脚して政党を支持したり、投票行動をしたりする以外ない、民主主義を維持していく方法はないと思うのである。

2008年10月16日 (木)

情報システムと「行動」

使える情報システムを構築しようとするとき、重要なのはユーザーの行動にまできちっと遡ることである。実際、情報システムは業務プロセスに基づく必要があるが、その業務プロセスは相互に関連する諸行動からなる。だから情報システムは最終的に、定義された行動にまで遡ってはじめて意味のあるものとなる。

■ユーザーの行動にまで遡るSEは少数

こう言えば、そんなことは当たり前じゃないか、という向きもあるかもしれない。しかし、私の知る限り、この当たり前のことを体で分かっているSEは本当に少ないのである。

販売管理という業務プロセスを考えてみよう。たとえば、ある販売管理プロセスが、「顧客獲得」、「受注」、「納品および売上計上」、「請求および入金」という4つのアクティビティからなるものとしよう。

それに基づいて販売管理システムを構築するとする(ふつう、パッケージで済ますだろうが、いまは議論のためそう仮定しよう)。これらのアクティビティは、それぞれ「顧客登録」、「受注入力」、「納品入力および売上計上処理」、「請求処理および入金入力」という4つのシステム機能に置き換えられるだろう。こうした場合、多くのSEはシステムを作ることしか念頭にない。とりあえずシステムに置き換えることに集中する。そこで、たとえば、まずは受注入力画面の設計書を作り、ユーザーに、「この画面で何か問題はないですか?」などと訊くことになるのである。

■システム構築リスクを高める業務行動の軽視

しかし、こんなことではシステム構築のリスクを高めるだけである。そもそも行動には3つの要素がある。why、what、howである。(who、when、whereは割愛する)。何の目的で、何を、どのような方法で行なうか、それで行動は定義できる。whyは今はおいておくとして、問題はwhatとhowである。上の例ではwhatは捉えられているが、howが完全に抜け落ちている。何をするのかは、顧客獲得、受注、納品などとして明確になっているが、それらをどのように行なうかということにはまったく注意が払われていない。

たとえば、受注に関して言うなら、受注自体はどのようなタイミングで発生するのか。時期的特性はなく随時発生するのか、それとも月末などに集中して発生するのか。もし、随時発生なら、入力も随時になろう。時期的に集中発生するなら、入力も一時に集中してすることになろう。すると、これによって画面の作りも変わるのである。

随時ならランダムに顧客を抽出し、1レコード単位で入力するような画面展開が必要となる。一時に集中するなら一定のまとまった単位で、たとえば地域や業種といった処理上意味のある顧客特性ごとにまとめて入力するといった画面のつくりが有効となる。さらに定期的に受注がある場合は、定期顧客だけ一覧形式で入力できる画面が必要といったことにもなろう。

しかし、多くのSEは、まずはユーザーの業務行動を中心に据え、その上で画面や帳票を考えるということをしない。とりあえず画面・帳票等のシステム機能を中心に考える。そしてある程度の業務知識が得られれば、さっそく設計書を作って「この画面でどうですか?」と訊くということになる。そう問われればユーザーはいろいろ言うであろう。ここはまとめて入力したいとか、ここはかくかくしかじかの条件で抽出したいとか、思いつくままにほしい機能の話をするであろう。それでいいではないか、ユーザーの要件を聴き取っているのだから、というのが大方のSEの言い分であろうか。

■要件漏れを防ぐ業務行動の聴き取り

しかし、このやり方には致命的な欠点がある。網羅性が担保されないのだ。網羅性が担保されなければ要件漏れが出る。要件漏れこそがテスト工程から本番稼動に至るまでもっとも厄介なシステム構築の阻害要因であることは言を待たない。

問われれば思いつくままに答える、これこそがユーザーの特徴である。SEの中で、ユーザーは筋道を立てて網羅的に要件を語ってくれるものだ、などと思っている人がいるだろうか。一人もいまい。思いつきで話されたことを全要件と思い込んで(あるいは思わざるを得なくて)、それで痛い目にあったことのあるSEも多いであろう。だからこそ、SEの側が主導権をとって、徹底的に網羅性が担保できる聴き取りをしなければならないのである。

そのポイントは、まずは画面や帳票のことは置いておいて、ユーザーの業務行動それ自体に集中することである。たとえば受注業務においてなら、そもそも営業は顧客とどのような接点を持つのか、その接点のどこで受注が発生するのか、受注の諸条件はいつどのようにして決定するのか、発注書や契約書などの書類はどのタイミングで手に入るのか、入手した書類はどのように整理されるのか、最終的に誰が承認チェックするのか、受注情報の入力は営業か事務アシスタントか誰が、またどの書類を原帳票にして行なうのか、等々。こうしたことを順序だてて網羅的に聴き取るのである。

画面・帳票はあとだ。まずは業務行動を徹底的に訊く。そうすれば、「そんなことをやっているのか」、「そんな例外的なことがあるのか」、「そんな独特な業務文化があるのか」などなど、思いもしなかったことが出てくるであろう。その中には聞き漏らしていたら設計にとって致命傷になったかもしれない要件もあるはずである。一通り知っていたつもりが、何もわかっていなかったのである。一見迂遠に見えても、まずユーザーの行動に徹底的に定位することが、後の手戻りを防ぐのである。

2008年10月11日 (土)

本当の構造改革とは官僚政治改革

民主党の「5つの約束」が先日新聞に載っていた。その一つ目が「国の総予算212兆円を全面組み換え。国民生活を立て直す財源を生み出します。」となっている。そのあと、年金・医療、子育て、働き方、農林漁業と続くが、なんと言っても、一つ目の「約束」は次元が違う。なぜなら、他の「約束」はお金がなければできないのであって、その財源を確保するという意味で、すべては一つ目の「約束」にかかっているからである。

■官僚の支配下にある国家予算

だが、注意しよう。「国の総予算212兆円」となっている。ふつう日本の国家予算(つまり一般会計)は大体80兆円ぐらいであろう。しかし、212兆円と言われている。これはなぜか?

詳しい説明はされていないが、一般会計だけでなく、特別会計も含めて「国の総予算」と言っていると解する以外ないであろう。

Wikipediaによれば、特別会計には、事業特別会計、資金特別会計、資金経理特別会計などがある。事業特別会計は各省庁が管轄するもので、たとえば、農林水産省なら国有林野事業特別会計、厚生労働省なら年金特別会計といった具合である。資金特別会計は、かの財政投融資がそれに相当する。いずれも単一予算主義の原則があるにもかかわらず、一般会計とは別に、管轄省庁がその歳入と歳出を管理することができる。

簡単に言えば、官僚が自分たちの裁量で管轄できるお金と言っていいであろう。「国の総予算212兆円」とは、これら、官僚の裁量に服する特別会計も含んでいるわけである。一般会計を約80兆円とするなら、残りの約130兆円がそれに相当することになる。

もし、日本が民主主義国家というのであれば、これは奇妙な話である。確かに日本は民主主義の制度を持っている。議院内閣制である。私たち国民の投票により多数派を形成した政党が内閣を構成し、政策を実行する。国民の投票が土台にある限り、民主主義と言える。

ところが、その議会および内閣で審議し、執行する予算は約80兆円。残り130兆円は国民の投票とは何の関係もない官僚が自分たちの裁量で執行しているのである。国民主権の配下にあるのは80兆円。国民主権が及ばないところで動かされているのが130兆円。これでは、民主主義国家というより、官僚主義国家であろう。

したがって、「国の総予算212兆円を全面組み換え。国民生活を立て直す財源を生み出します。」とは、212兆円すべてを国民主権の側に取り戻すということを意味しよう。そしてそれは必然的に官僚主義のある種の打破を意味する以外ない。

■なぜ小泉構造改革は失敗したか

そもそも小泉元首相は、「自民党をぶっ潰す」と叫んで構造改革に着手したはずであった。これは、きわめて本質を突いた洞察であった。構造改革は自民党を潰さなければできないということなのである。なぜか? 

自民党が官僚体制と癒着していると思われるからである。癒着していれば、官僚主導の下に政策が誘導される。その誘導は各省庁の都合や権益によって推進される。各省庁縦割りの中、国益より省益を優先する力学が働き、その官僚と癒着した政治には、政策を自律的にコントロールすることができなくなるのである。こうして国全体の適正な改革は放置されることになる。

では、政治が政策をコントロールするためにはどうしたらいいか? 政治と官僚との癒着を断ち切ればいい。そのためにはどうすればいいか? 事実上官僚との癒着の温床である自民党を潰せばいい。だから、「自民党をぶっ潰す」は慧眼であったのだ。

で、結果はどうであったか? 小泉元首相には自民党は潰せなかった。そのためどうなったか? 構造改革は不発に終わったのである。

道路公団民営化も郵政民営化も庶民的評価の視点から言えば、何の効果もなかった。庶民的評価とは、専門家的評価とは対照的に、庶民の実感ベースの評価を指している。道路公団民営化も郵政民営化も、専門家の視点からすれば、何らか取柄があったのかもしれないが、私たち庶民の実感からすれば、高速道路代が安くなったわけでもなく、財投資金が市場に出回って生活が豊かになったわけでもなく、何のいいこともなかった。そうであれば、政治家がどう言おうと、評論家がどう言おうと、庶民的には失敗だったのだ。

官僚主義が支配する以上、道路にしろ、郵政にしろ、監督官庁の既得権と族議員の権益が複雑に絡み合い、そう簡単に市場へと「解放」されるはずはないのである。その利権を彼らが簡単に手放すはずがないからである。だからいずれの民営化も官僚と族議員によって骨抜きにされ、一見大改革が断行されたように見えながら、庶民的実感としては何一つ起こらないという事態を招いたのである。それは単なる「劇場」に過ぎなかった。

■民主党は本当に官僚主義と全面対決できるか?

しかし、それはそれで無理がないとも言える。自らの権益を手放さないのは、基本的には合理的な行動である。私だって会社で、自分の部が大幅に権益を失うような提案を自分からするはずがない。自分の存在を維持発展させることがどんな場合でも合理的な行動なのである。では、そんな私が敢えて自部門が権益を失うような選択をせざるを得なくなるとすれば、それはどんな場合であろうか。経営トップからの有無を言わせぬ指示がある場合である。

官僚主義も同じである。官僚が良心に目覚め、全体最適を優先して、自らの権益を進んで捨てるなどという空しい期待をするのは愚かである。そもそもそんなことはあり得ない。可能だとすればただひとつ。自民党以外の政党が政権を取り、有無を言わせず官僚から既得権益を取り上げる、それしかない。そうしてはじめて、官僚の部分最適の政策誘導が終焉を迎え、全体最適の政策が回りだすのである。

本当に構造改革を断行しようとすれば、まず第一に官僚主義を改めねばならない。構造改革の根本は、官僚主義改革にある。

かくして、「212兆円の全面組み換え」は政治と官僚との全面対決を意味する。サラッと書かれているが、実は戦後政治における未曾有の大改革となろう。問題は、小沢民主党に本当にそれができるのか? ということである。

民主党の政権奪取の可能性が高まってきている今、ここにすべてのポイントが集約される。もし、これができなければ、民主党が政権を取ったとて、大差ない。さて、どうなるか? 見極めていかねばならない。

2008年10月 5日 (日)

評価される情報システムはどこから生まれる?

セミナーなどのおりに、他企業の情報システム部門長と話す機会があるが、やはり、抱えている問題は似たり寄ったりのことが多い。こうしたことについては、なんと言っても情報交換が重要である。自分の思っていることを発信し、また人の意見を聞く。その中に大きなヒントもあろう。

そこで、まずは自分から、日頃のITマネジメント業務の中で考えたことを書きとめていきたい。

最初はやはり、評価される情報システムをいかに作るのか、という大元のところについて書いてみたい。ふつう情報システムは主管となるユーザー部門の要請に応じて開発することが多い。しかし、思うような成果が出ず、情報システム部門としてあまり評価されないということもたびたびではないだろうか。そうしたとき重要なのが「そもそもこのシステムは何のためだったの?」という根本のところなのである。

■情報システムは経営に貢献している?

最近よく、情報システムは経営に貢献しなければならない、という話を耳にする。それだけ、経営に貢献していないという意識が経営層にあるということなのだろう。確かにシステムはお金がかかる。金食い虫と思っている経営トップも少なくないだろう。その割には効果のほどが見えない。だから、もっと経営に貢献しろ! ということになる。

これは本当に悩ましい問題だ。まずは、教科書どおりの答え。経営に貢献するとは、要するに自社のビジネスに貢献することだ。ビジネスはいくつもの業務プロセスの連鎖によって成り立つ。これら業務プロセスにはそれぞれ固有の目的がある。と同時に、その目的達成を阻む阻害要因もある。重要なことは、阻害要因を取り除くこと、そして本来の目的を達成することなのである。

とすれば、各業務プロセスにおける阻害要因の除去に、そして目的達成に資すること、それがビジネスへの貢献ということになろう。情報システム(あるいはIT)は、この点を実現できるかどうかによってその価値が決まるのである。

確かにその通りである。しかし、これがなかなか難しいのだ。なぜか? 業務分析が不足しているからか? 要件漏れが出るからか? 機能化が不十分だからか? そうしたことも確かにあろう。しかし、おそらくそうしたことが最も重要なのではない。そもそも問題はもっと根本的なところにあるように思われる。

■コミュニケーションという源泉

そのビジネスが何を目指しているのか、何が阻害要因になっているのか、それは果たして明白なことだろうか。意外かもしれないが、多くの場合、全然自明ではない。なぜだろう。だって、事業計画書を見れば、何を目指しているか、書いてあるではないか。中期経営計画書を見れば、目標も、予想される阻害要因も、打つべき施策も、書いてあるではないか。

しかし、そもそも「書いてあること」というのがくせものなのである。なぜなら、本当のことは人の内にあるからだ。人の思いというものはそう簡単に顕在化できるものではない。「話せば長くなる」話しを一文にしたところで、その一文から「長い話」を再現できるわけではない。しかもやっかいなことに本人さえ本当のことに気づいていない場合さえあるのだ。経営者は事業の目的について溢れるような思いをもっているものである。事業部の責任者は事業展開の具体的な方策についてさまざまな可能性を考えているものである。業務担当者は部外者には思いもつかない問題で困っていたりするものである。きれいにまとめられた中期経営計画書など、この段階では役に立たない。通りいっぺんの話もあてにならない。

では、システム構築の目的をそうした「思い」の次元から引き出してくるにはどうしたらいいか。月並みに思われるかもしれないが、コミュニケーションしかないのである。そして、この月並みなはずのコミュニケーションが情報システム部門の人間にとって、多くの場合難関なのである。

大体、情報システム部門には、坐ってプログラミングや設計に熱中するタイプが多い。対人コミュニケーションが得意な人材なら、ふつう営業現場などに回されるだろう。情報システム部門にいるということ自体が、コミュニケーションの不得意さを物語っているというケースが少なくないのである。

だが、今やそんなことは言っていられない。プログラミングや設計ができると言うだけでは情報システム業は勤まらない。ITベンダーもそうだが、ユーザー企業のIT担当者も求められる能力要件(コンピテンス)が大きく変わってきているのである。それはITプロフェッショナルに求められる要件の変化なのである。

■プロフェッショナルとして求められるもの

情報システム部門にとって顧客とは誰か? 社内のユーザーであろう。IT担当者もプロフェッショナルであるなら、社内ユーザーのニーズに応えられてナンボである。そのためには、まずはニーズをつかむことが基本中の基本である。プログラミングがうまかろうか、設計がすぐれていようが、それらはすべて二次的なことだ。プロである以上、まずユーザーにニーズに応えるという強い意志なくしては、成り立たない。

で、私は思うのだが、この強い意志は、サラリーマン意識と相反する関係にある。サラリーマン意識とは、組織の中で与えられた機能を果たしていればいいという考え方のことである。与えられた指示通り動く、言い換えれば、目的志向が希薄で、誰かが決めた手段をうまくこなすことに集中する。「そもそも何のためにやってるの?」「それが目的なら、この手段ではおかしいじゃない?」などとは決して問わない。「何かよくわからないけど、言われたことをきちんとこなそう」、そういうタイプである。

それでは、ユーザーのニーズに応える強い意志など持ちようがない。重要なのは目的である。自分で目的を把握して、それに基づいて取るべき手段の妥当性も自分で判断する。主体は自分である。何を目指しているか、どこに行こうとしているのか、まずは自分でつかみ、納得しなければ始まらない。

だから、ユーザーのステークホルダーに訊くのである。何が課題なのか、何を目指しているのか、何を求めているのか、その思いを。しかも、単に御用聞きのごとく聞くのではなく、疑問点は聞き返し、パートナーとして自分の確信にまで高めるようにして訊く。自分で訊き、自分で確かめ、納得して、はじめて方向性が明確になり、とるべき手段(すなわち、作るべきシステム)もその像を結び始めるのである。

これがなければ、本当に役に立つシステムは作りようがない。

かくて、コミュニケーションこそが貢献するシステムの出発点なのである。

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