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2009年2月

2009年2月11日 (水)

政治に必要な国民を納得させられる論理性

政府・自民党のあらゆる政治的関心が総選挙に吸い取られてしまっている。そのため、国民の目先の歓心を買うことに必死で、5年後、10年後の国民生活について、誰も何も考えていない(「選挙がすべて。国民の「将来」の完全なる欠落」)。しかし、それは何か奇妙な矛盾ではないだろうか? なぜなら、国民の歓心を買おうとするような場当たり的政策行動のすべてが、逆に国民の不信を招くからである。むしろ、5年、10年の視野で腰を落ち着けて政策を語ることの方が、国民の支持を得るだろう。右往左往していることが、一番の不信の種なのだ。

■求められる新たな再配分主義

国民の一人としては、なんでそんなこともわからないの? と思ってしまう。バカか? いやいや、政治家になるほどの人たちだ、単なるバカではあるまい。いくつか要因があるのだろう。

過去を遡れば、自民党は経世会を中心に建設業を主とした地方への利益誘導で生きてきた。公共事業を持って行って、逆に献金と票を吸い上げる。それを領袖が中心となって派閥に配分する。これが自民党の大動脈だった。しかし、このシステムは90年代になってうまく回らなくなった。いくら公共事業を落としても景気が回復しない。地方が活性化しない。財政はどんどん悪化する。そこで、小泉元首相が登場して、こうした自民党システムをぶっ壊すと宣言。公共投資は以前のようには地方に回さない。各自が自己責任で努力せよ、というわけである。しかし、ネオリベ政策はどこの国でも一部の勝者だけを潤すにすぎない。結局、職が減り、貧困層が増え、福祉が細り、誰の眼にも、これではダメだということになった。それが現在の状況である。

で、これからどうする? ということになる。その答えは、「ない」。それが自民党のホンネではないだろうか。なぜそう思うのかと言えば、本来答えは簡単なはずだからである。行き過ぎたネオリベの後は、新たな再配分主義しかないだろう。言い換えれば、社民主義のリニューアルしかないと思う(「ネオリベから市場コントロールへ(身近な問題からのアプローチ)」)。そんな簡単な答えが、さっと出てこないのは、それ相応の理由があるからだろう。つまり、答えが「ない」という状況を生み出す要因があるのである。

たぶんその理由は、シガラミである。政治家と官僚、官僚と経済界、経済界と政治家のシガラミである。自民党がやってきた地方への利益誘導という意味での再配分主義は当然もうダメである。また、旧社会党が盛んに擁護していた手厚い福祉という意味での社民主義も、財政を考えるともはや難しい。しかし、ネオリベが招いた格差の中で、社会的弱者に何らかの仕方で富が回る仕組みを作ることは必須である。そこで、これまでの枠組みを根本から見直すような形での新たな再配分主義・社民主義が不可欠なのである。

■根本的な変革を阻むもの

しかし、この「根本からの見直し」というものにもっともそぐわないもの、それが上記のシガラミに違いない。見直さなければならないのは、お金の流れとその受益者である。しかし、両方とも、政治家、官僚、経済界というシガラミの中で固定化されている。そんのなもの、いまさら変えられはしない。無理だ、それが答えである。答えは出てしまっている。だから、新たな再配分だ、などといわれても、それにそぐうような答えははじめから「ない」のである。

だが、こういう考え方もできないだろうか。そうは言っても新たな再配分主義を構築する以外未来がないとするなら、もっとはっきり言えば、それ以外自民党の未来も、政治家としての未来もないとするなら、四の五の言っていないで「根本から見直す」しかないではないか、と。百歩譲って、理想を求めろとは言わない。しかし、こんなシガラミに固執していたのでは、ひょっとして議員という身分さえ失うかもしれないのである。だって、内閣の支持率はどんどん落ちいて行ってるでしょう? とすると、はじめの問いに戻ることになる。どうしてそんなこともわからないの?

そこで、一つの可能性が浮かび上がってくる。政府も自民党も本当にわかっていないかもしれないのだ。シガラミが強ければ強いほど、周りが見えなくなる。シガラミ内部の「常識」がすべてとなってしまう。言い換えれば、そもそも本来どうあるべきなのかということがまったく考えられなくなってくる。おそらく、本来どうあるべきかは重々分かっているのだが、シガラミのため身動きが取れないのだ、というのではない。そもそもシガラミに眼を塞がれてあるべき姿自体が見えなくなっている。そういうことのように思われる。

もう少し言い方を変えると、いったんシガラミ(ムラ社会と言ってもいい)の中に入ると、論理性よりムラ社会的合意の方が優先されてしまうのである。たぶん、これは政府や自民党だけの話ではない。組織と名のつくものであればなんであれ、わたしたちの回りでよく見聞きする光景である。日本人の特質といった話にもっていくのは抵抗感があるが、しかし、わたしたち日本人がムラ社会的結びつきより論理性を重視することがあまり得意ではないというのは、否定できないだろう。

古くは第二次世界大戦における軍部の暴走から、近くは長年にわたる自民党の一党支配に至るまで、いったん内的な連動のメカニズムが動き始めると、誰もそれを止められなくなる。身内的結びつきが重視されるあまり、外部の眼差しで物事が見れなくなる。よしんば、これではダメだとわかったとしても、内部のシガラミが強すぎて、誰もをれを変えられないのである。

■いま求められる国民を納得させられる「論理性」

その意味で、重要なのは論理性である。まず、近代以降、政治体制がどのような変遷をたどって今日に至っているのか。その歴史的経緯からしてこの後どのような体制へ移行すべきなのか。さらに現今の社会的諸課題の解決を考えるとき、その移行はどのように具体化されるべきなのか。そうしたことが合理的に導き出されねばならない。そして、いったん(たとえ蓋然的にせよ)結論が得られたならば、目指すべき姿を設定し、それを実現するための方法を考案し、そしてシガラミより何をなすべきかを優先させて、実行に移すべきである。

国民の目から見れば、それは、5年後、10年後の国民のための国家・社会像を明確に示し、そこへ至るためのプロセスを明示し、いいことだけでなく不都合なことも正直に語りつつ、希望と変革へむけて国民を導く、そういう言動となって現れるであろう。

麻生政権のように希望も変革意欲もない場当たり的政策でもなく、小泉政権のように掛け声とパフォーマンス優先の論理性欠如の政策でもなく、意欲と論理性が車の両輪となるような政策が望まれるのである。

確かに、日本社会は同調圧力が強いと言われる。しかし、自民党であれ、民主党であれ、いまや強い論理性をもって国民を納得させられる政党こそが、日本の政治を担う資格を持つことができるであろう。

2009年2月 8日 (日)

選挙がすべて。国民の「将来」の完全なる欠落

現在の政府と自民党を動かしている基本的な枠組みは何か? わたしには、総選挙に対するほとんど恐怖にも近い不安感であるように見える。そもそも昨年、麻生首相には人気があるとの想定のもと、首相就任に遠くないタイミングで総選挙に打って出、一挙に勝利に持ち込むはずであった。ところが、ふたを開けたら支持率は福田政権より低く、それがさらに低迷。世界金融危機を口実に総選挙を引き伸ばし、何とか支持率を回復せんと、やれ給付金をばらまくだの、消費税増を入れる入れないだのと、もがいてきた。結果、ますます支持率低迷。しかし、総選挙はイヤでも9月に迫ってくる。いまの支持率では敗北必至。何とか支持率を上げなければ・・・。それがすべて。それしか考えられない。いまの政府・自民党はこの枠の中ですべてが検討され、批判され、決定される。

■渡りをめぐる党内批判

一つだけ例を挙げよう。「渡り」の問題である。2007年に成立した改正国家公務員法で公務員の再就職業務を「官民人材交流センター」に一元化し、2011年までに渡りのあっせんも全面禁止するとしていた。しかし、昨年12月に閣議決定された政令で、3年間の移行期間は必要不可欠な場合に限り首相の承認で渡りのあっせんを可能とした。

これに対し渡辺善美氏が首相に公開質問状を提出しようとして拒否され、離党する騒ぎになり、渡辺氏の離党に冷ややかだった自民党サイドからも、行政改革推進本部を中心に渡りに対する批判が続出するようになった。(渡辺氏の離党については「渡辺喜美氏が自民党を離党、なんで一人?」を参照)。

そこで1月29日になって麻生首相はようやく「私としては国民からの厳しい批判や国会での議論を踏まえ、今後は認める考えはない」と考えを翻すに至った。そして、2月2日には渡りを承認しないという方針を、自身の在任中だけでなくその後も政府方針として受け継がれるべきだと発言し、3日には「各省庁による天下りあっせんは3年を待たず前倒しして廃止する」、また「これを明確にするために、渡りと天下り(あっせん)を今年いっぱいで廃止するための政令を作る」と述べた。

■国民をいかに騙すか

おそらく・・・、官僚との関係を考えて渡りのあっせんが可能になる余地を作ったのだろう。しかし、そんな、官僚と癒着していますと言わんばかりの策をとったら、いくら国民でも黙っちゃいないにちがいない。そうでなくても支持率が20%を切っているのに、次の総選挙で勝てないではないか。自民党サイドとしては気が気でなかっただろう。

そこで批判が続出する。首相としては、そもそも党内での求心力が著しく低下しているときに、批判を黙殺するわけにもいかない。また、よく考えれば、確かに選挙をますます不利にするに違いない。てな感じで、「今後は認める考えはない」と発言せざるを得なかったのだろう。

が、そんな発言程度で国民は騙されるだろうか? 大体麻生首相一人が認めないと言っても、首相がコロコロ変わるのだ。全然継続性がない。これじゃ騙しきれない。そこで「政府方針として受け継いでいく」という発言になる。さらに、首相が認めるか否かということなら、まるで属人的問題になってしまう。それでは全然一貫性がない。国民の目はそこまで節穴じゃないだろう。そこで、「今年いっぱいで渡りとあっせんを廃止するという政令を作る」という発言になる。

以上はわたしの想像に過ぎないが、こうした心証は多くの人が共有するところではないだろうか。そこから見えてくるのは、ともかく選挙に勝てるかどうかがすべてだ、という政府と自民党の姿なのである。票がほしい。そのためには支持率を上げねばならない。重要なことは、国民のための政治をやっていると、国民に強く印象付けることである。見かけでもいい。ともかくそう思い込ませることである。――何かもう、必死なのだ。

■国民の「将来」の完全なる欠落

政府と自民党のすべてのターゲットが総選挙に集中している。そこから先は何もない。時間は総選挙ですべて止まっている。消費税増税を入れる入れない、給付金を出す出さない、すべて目の前の選挙に勝つための道具なのであって、まるでブラックホールのように、すべてが選挙に吸い込まれていく。いくら将来の政策について語っても、すべて「選挙のため」というブラックホールに吸い込まれていまい、時間がそれ以上先に延びない。どれだけ先のことを語ったとしても、すべては目の前に迫った選挙に吸収されてしまうのだ。

時間が選挙で止まる。それ以上先について誰も真剣に考えられない。選挙で効果が出ること以外は、すべて無意味。将来のことも、花火をあげて国民が喝采してくれなければ何の意味もない。かくして、あらゆる政策が断片化する。5年後、10年後の国民の幸せを地道に追求していく余裕などない。まずは国民の歓心を買うことが第一。政策の実行可能性も無視。いや、実行可能性を担保することさえ、国民のご機嫌取りの材料となる。

いま、わたしたち国民がよく知っておかねばならないことは、わたしたちの将来が完全に無化されているということである。欠落しているのである。10年後にワーキングプアはいなくなっているのか? 安心して医療にかかれているのか? 豊かな介護が保証されているのか? 何を問うても答えはない。誰も考えていないから。

「将来」というものが完全に欠落した国。国民の「将来」に誰も関心を示さない国。そんな国があるのだろうか? いま、わたしたちが想像している上にこの国の病は深く進行している。

2009年2月 4日 (水)

統計的な情報分析

情報分析に関し、具体的な方法に入っていきたい。ここでは主に統計的な情報分析について見てみたい。

■目的をもって仮説を立てる

前のエントリー「情報の二面性、事実と解釈」で、情報を分析するに際して、前提となっている文脈を意識することが重要であることを書いた。ここがまず出発点である。目的は何なのか。つまり、何をするために、どのような意思決定をしなければならず、そのためにどのような情報が必要なのか、そうした目的―手段連鎖を明確に捉えておく必要がある。

たとえば、新商品販売において、販売数量が目標を大きく下回っているとする。回復のためにはまずはその原因がわからなければならない。かくて原因を明らかにする情報が必要となる、というわけである。

で、はじめにすべきことは仮説を立てることである。仮説なしでは情報を抽出することもできない。過去の知識や経験の蓄積などからある種直感的に導き出される仮説は、単に恣意的な思いつきというわけではない。いまだ論理的(根拠付けられている状態)ではないが、いわば暗黙知に支えられている限りにおいて、一定の方向性を示していると見なすべきである。ただ、その論理性が顕在化されていないのであり、だから情報分析で検証することが必要なのである。

たとえば上の例で言えば、「販売数が伸びない原因は商品自体にあるのではなく、顧客ニーズの取り違えにある。都市部の20代をターゲットに大都市圏を重点に展開したが、実は地方にこそニーズがあるのではないか」。そういう仮説を立てたとする。

それを検証するために必要な情報は何か。それを考える。顧客関係のテーブルに蓄積されたデータのうち、何を使えば検証できるのか。顧客の住所と年齢および購買品目だ、としよう。そこでそれらの項目を抽出する。(たぶん、BIツールで直接データを取り出すか、情報システム部に言って、データを出してもらうか、といったところだろう)。

■個体と集団の区別、クラス値と特性値の区別

そこで情報分析ということになるのだが、はじめに次のことを区別しなければならない。それは個体と集団の区別である。個体を分析するとは、たとえば一人の顧客を取り上げて、その人のさまざまな側面を明らかにすることである。それに対し、集団を分析するとは、顧客全体の集団としてのさまざまな特性を明らかにすることである。後者は通常、統計分析と呼ばれる。

たとえば、競合分析をする場合、特定の競合企業を分析するのが個体分析、競合全体(競争環境全体)の特性を分析するのが集団分析である。前者であれば、一つひとつの情報の収集や整理や考察がポイントとなる。後者であれば、統計手法を使って集団としての特性を浮き彫りにすることがポイントとなる。ここでは、個体分析はおいておいて、集団分析、つまり統計分析を取り上げたい。

とは言っても、わたしは統計の専門家ではないので、基本的な考え方だけ見ておきたい。以前のエントリー「情報分析とは何か? まずデータとは?」で見たように、データ設計においてデータは、エンティティ(実体)を特定するためのプライマリキーと、そのエンティティに属する属性(アトリビュート)に分けられるのであった。たとえば、「顧客コード:0001」がプライマリキー(これで特定の顧客が名指しされる)で、その顧客の住所、年齢、購買品目等が属性である。

次に、この属性がさらに、クラス(階級)値と特性値に分けられる。中学生のときに数学で度数分布表というのを習ったことがあると思うが、そのときよく出てきた例に身長別の人数分布というのがあった。150cmから155cmまでは何人、155cmから160cmまでは何人・・・、というやつである。この場合、身長がクラス値で人数が特性値である。

何がクラス値で何が特性値かはあらかじめ決められているわけではない。分析の目的によって、そのつどクラス値になったり、特性値になったりする。先の例で言えば、新商品の購買数が問題で、それを住所や年齢といった属性ごとに見たいのであった。であれば、住所と年齢がクラス値となり、購買品目(購買数)が特性値となる。一般に、ある集合単位で特定の数値を見たいというとき、集合単位がクラス値となり、特定の数値が特性値となる。いまの場合、住所や年齢単位に購買数を見たいのである。住所や年齢がクラス値になり、購買数が特性値になるのはそのためである。

■いかにして原因を明らかにするか

というわけで、これによってとりあえず住所・年齢別の購買数という統計数値が得られることになる。が、こうした分析が単発で終わることはあまりない。さらにいろいろな角度から分析を繰り返すのがふつうであろう。なぜか? 意思決定と行動に結びつくような分析が必要とされるからである。

確かにこうした分析は「事実」を明らかにする。しかし、「事実」は通常、原因―結果連鎖という構造を持っている。販売数が目標を大きく下回っている場合、原因は何か? ということになるが、それはつまり、何らかの原因があって、その結果として販売数が伸びないからである。それゆえ、この原因と結果の総体が、「事実」ということになる。結果だけ捉えて、原因が捉えられていないような「事実」は不完全である。原因と結果の連鎖全体が捉えられて初めて「事実」なのである。

分析が繰り返される理由は、まさにここにある。結果は比較的容易に明らかになるが、なかなかわからないのは原因である。そして、原因がわからなければ手の打ちようがなく、意思決定も行動もできない。というわけで、原因の究明を目指してさまざまに分析が繰り返されることになるのである。

では、原因はいかにして究明していけばいいのか? ごく簡単に触れておこう。クラス値と特性値とで方法が異なる。まず、クラス値については、クラス値のくくり(セグメント)を細分化していくことによって原因を明らかにしようとする。そのためにわたしがよく使う方法は3つある。ひとつは、単純に特定のクラス値を細分化することである。都道府県単位をいくつかのブロックに分け、さらに市部と郡部で分けていくことによって、他とは違う傾向を示す地域(そこに何か要因となるものがある)を見つける、といった方法である。これは、一般にはドリルダウンと言う。

二つ目は、いわゆるクロス集計である。たとえば、地域と年齢を縦軸と横軸にとり、地域、年齢、それぞれだけではわからない特性を組み合わせによって洗い出すのである。三つ目は、いわゆるダイス&スライス(多次元分析)である。これはクロス集計の拡張版と言っていい。クロス集計は2つの属性で行なうが、ダイス&スライスはさらに属性を付け加え、組み合わせをさまざまに変える。たとえば、地域と年齢に年収という属性を加えたとしよう。すると、地域と年齢だけでなく、地域と年収、年齢と年収という組み合わせでもクロス集計を試みることができる。こうして組み合わせを変えていくことによって、よりいっそう背景を浮かび上がらせることができるのである。

次に、特性値について。ひとつは、もともと因果関係が明らかであるような特性値を取り上げるという方法がある。たとえば、住宅を購入する人は家具も購入する可能性が高い。住宅を買ったから家具も新しくするというわけだ。とすれば、家具の販売予測をするために、住宅の販売推移を見るといったことが可能になる。2つ目は、必ずしも因果関係が明らかでない場合である。この場合には、仮説を立て、相関分析をすることになる。たとえば、商品Aは年齢層が高いほどリピート率が高くなるという仮説を立てた場合、縦軸に年齢、横軸にリピート数をとって、対象顧客すべてをプロットすることにより、相関を見る。(この場合、年齢もリピート数も特性値と見なす)。相関係数が一定以上であれば、相関があることになる。つまり、両者には因果関係がある。そこで、上の年齢層をターゲットに商品Aの販売戦略を練り直すといったアクションに繋がるのである。

とりあえず、これぐらいにしておこう。以上で主に集団としての分析(つまり統計分析)を見てきた。しかし、これとは別に個体としての分析もある。また、もうひとつ重要な区別がある。ここまで属性(クラス値と特性)を中心に見てきたが、それに対し、遇有性を中心とした分析もあるのである。あわせて言えば、個体にかかわる遇有性の分析、それがさらに重要な領域と言える。それについては、また別のエントリーで取り上げたい。

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