政治に必要な国民を納得させられる論理性
政府・自民党のあらゆる政治的関心が総選挙に吸い取られてしまっている。そのため、国民の目先の歓心を買うことに必死で、5年後、10年後の国民生活について、誰も何も考えていない(「選挙がすべて。国民の「将来」の完全なる欠落」)。しかし、それは何か奇妙な矛盾ではないだろうか? なぜなら、国民の歓心を買おうとするような場当たり的政策行動のすべてが、逆に国民の不信を招くからである。むしろ、5年、10年の視野で腰を落ち着けて政策を語ることの方が、国民の支持を得るだろう。右往左往していることが、一番の不信の種なのだ。
■求められる新たな再配分主義
国民の一人としては、なんでそんなこともわからないの? と思ってしまう。バカか? いやいや、政治家になるほどの人たちだ、単なるバカではあるまい。いくつか要因があるのだろう。
過去を遡れば、自民党は経世会を中心に建設業を主とした地方への利益誘導で生きてきた。公共事業を持って行って、逆に献金と票を吸い上げる。それを領袖が中心となって派閥に配分する。これが自民党の大動脈だった。しかし、このシステムは90年代になってうまく回らなくなった。いくら公共事業を落としても景気が回復しない。地方が活性化しない。財政はどんどん悪化する。そこで、小泉元首相が登場して、こうした自民党システムをぶっ壊すと宣言。公共投資は以前のようには地方に回さない。各自が自己責任で努力せよ、というわけである。しかし、ネオリベ政策はどこの国でも一部の勝者だけを潤すにすぎない。結局、職が減り、貧困層が増え、福祉が細り、誰の眼にも、これではダメだということになった。それが現在の状況である。
で、これからどうする? ということになる。その答えは、「ない」。それが自民党のホンネではないだろうか。なぜそう思うのかと言えば、本来答えは簡単なはずだからである。行き過ぎたネオリベの後は、新たな再配分主義しかないだろう。言い換えれば、社民主義のリニューアルしかないと思う(「ネオリベから市場コントロールへ(身近な問題からのアプローチ)」)。そんな簡単な答えが、さっと出てこないのは、それ相応の理由があるからだろう。つまり、答えが「ない」という状況を生み出す要因があるのである。
たぶんその理由は、シガラミである。政治家と官僚、官僚と経済界、経済界と政治家のシガラミである。自民党がやってきた地方への利益誘導という意味での再配分主義は当然もうダメである。また、旧社会党が盛んに擁護していた手厚い福祉という意味での社民主義も、財政を考えるともはや難しい。しかし、ネオリベが招いた格差の中で、社会的弱者に何らかの仕方で富が回る仕組みを作ることは必須である。そこで、これまでの枠組みを根本から見直すような形での新たな再配分主義・社民主義が不可欠なのである。
■根本的な変革を阻むもの
しかし、この「根本からの見直し」というものにもっともそぐわないもの、それが上記のシガラミに違いない。見直さなければならないのは、お金の流れとその受益者である。しかし、両方とも、政治家、官僚、経済界というシガラミの中で固定化されている。そんのなもの、いまさら変えられはしない。無理だ、それが答えである。答えは出てしまっている。だから、新たな再配分だ、などといわれても、それにそぐうような答えははじめから「ない」のである。
だが、こういう考え方もできないだろうか。そうは言っても新たな再配分主義を構築する以外未来がないとするなら、もっとはっきり言えば、それ以外自民党の未来も、政治家としての未来もないとするなら、四の五の言っていないで「根本から見直す」しかないではないか、と。百歩譲って、理想を求めろとは言わない。しかし、こんなシガラミに固執していたのでは、ひょっとして議員という身分さえ失うかもしれないのである。だって、内閣の支持率はどんどん落ちいて行ってるでしょう? とすると、はじめの問いに戻ることになる。どうしてそんなこともわからないの?
そこで、一つの可能性が浮かび上がってくる。政府も自民党も本当にわかっていないかもしれないのだ。シガラミが強ければ強いほど、周りが見えなくなる。シガラミ内部の「常識」がすべてとなってしまう。言い換えれば、そもそも本来どうあるべきなのかということがまったく考えられなくなってくる。おそらく、本来どうあるべきかは重々分かっているのだが、シガラミのため身動きが取れないのだ、というのではない。そもそもシガラミに眼を塞がれてあるべき姿自体が見えなくなっている。そういうことのように思われる。
もう少し言い方を変えると、いったんシガラミ(ムラ社会と言ってもいい)の中に入ると、論理性よりムラ社会的合意の方が優先されてしまうのである。たぶん、これは政府や自民党だけの話ではない。組織と名のつくものであればなんであれ、わたしたちの回りでよく見聞きする光景である。日本人の特質といった話にもっていくのは抵抗感があるが、しかし、わたしたち日本人がムラ社会的結びつきより論理性を重視することがあまり得意ではないというのは、否定できないだろう。
古くは第二次世界大戦における軍部の暴走から、近くは長年にわたる自民党の一党支配に至るまで、いったん内的な連動のメカニズムが動き始めると、誰もそれを止められなくなる。身内的結びつきが重視されるあまり、外部の眼差しで物事が見れなくなる。よしんば、これではダメだとわかったとしても、内部のシガラミが強すぎて、誰もをれを変えられないのである。
■いま求められる国民を納得させられる「論理性」
その意味で、重要なのは論理性である。まず、近代以降、政治体制がどのような変遷をたどって今日に至っているのか。その歴史的経緯からしてこの後どのような体制へ移行すべきなのか。さらに現今の社会的諸課題の解決を考えるとき、その移行はどのように具体化されるべきなのか。そうしたことが合理的に導き出されねばならない。そして、いったん(たとえ蓋然的にせよ)結論が得られたならば、目指すべき姿を設定し、それを実現するための方法を考案し、そしてシガラミより何をなすべきかを優先させて、実行に移すべきである。
国民の目から見れば、それは、5年後、10年後の国民のための国家・社会像を明確に示し、そこへ至るためのプロセスを明示し、いいことだけでなく不都合なことも正直に語りつつ、希望と変革へむけて国民を導く、そういう言動となって現れるであろう。
麻生政権のように希望も変革意欲もない場当たり的政策でもなく、小泉政権のように掛け声とパフォーマンス優先の論理性欠如の政策でもなく、意欲と論理性が車の両輪となるような政策が望まれるのである。
確かに、日本社会は同調圧力が強いと言われる。しかし、自民党であれ、民主党であれ、いまや強い論理性をもって国民を納得させられる政党こそが、日本の政治を担う資格を持つことができるであろう。


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