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2009年5月19日 (火)

近代における自由と秩序の変遷⑲~思想的枠組みの再確認~

ここまで現在のあり得る政策について見てきたが、最後に思想的な枠組みを再度確認しておこう。

■近代の3つの価値と3つの体制

前近代の特徴は自生的な共同体性にある。近代はそうした共同体性からの解放として始まる。したがって、近代において最も重視されるべき価値は自由であり、リベラリズムである。

また、単に自由を最も重視すべき価値とみなすだけでなく、自由を原理的に徹底させるべきだとする考えが生まれる。リバタリアニズム(自由至上主義)である。

こうした自由と合理性を重んじる立場に対し、理性的であることの限界とその秩序破壊的な側面を指摘し、むしろ受け継いできた伝統や知恵を重視するのが保守主義である。

この、リバタリアニズム、リベラリズム、保守主義が、価値という側面から見たときの近代の三大思潮と言えると思う。

これとは別に、体制という視点から見たときも大きく分けて3つの考え方が指摘できる。

一つは、前近代的な共同体性からの解放ということから帰結される、個人主義である。

二つ目は、個人主義が「万人の万人に対する闘争状態」を生むがゆえに、秩序の担保のために統治権力(近代国民国家)による統制が何より重要とする考え方、つまり国家主義である。

三つ目は、個人と国家の中間となるような共同体によって自由と秩序のバランスを取ろうとする考え方、つまり中間集団主義(コミュニタリアニズム、アナーキズム)である。

個人主義、中間集団主義、国家主義が体制という視点から見た近代の三大思潮と考えられる。そして、これに近年のグローバル化が付け加わる。

■ファシズム、社民主義、社会主義

さて、価値視点と体制視点から見たそれぞれ3つの主義は、相互に絡みながら進展していく。

体制的にいえば、前近代的な共同体性の衰退に伴い、国民国家をいかに形成していくかが重大な課題となる。この国民国家形成がおおむね現実化してくるのが1870年前後、すなわちフランスが第三共和制に入り、ドイツがビスマルクによって統一され、日本が明治維新によって近代化を開始するころである。このころから20世紀にかけて国民国家が強大な力を持つようになり、国家主義が顕著となる。リベラリズムも保守主義もこの国家主義と結びつくことになる。

リベラリズムと国家主義の結びつきから2つの思潮が生まれる。一つは社民主義である。特に1929年の世界恐慌以降、リベラリズムは、単に市場原理に任せるのではなく、国家が主導して貧困や福祉に対処することが不可欠と考えるようになったのである。いま一つは、社会主義である。プロレタリアート階級を搾取から解放するための革命を、徹底した中央集権的国家主義によって実現しようとした。その意味で社会主義もリベラリズムが国家主義と結びついた結果といえる。

保守主義と国家主義の結びつきからは全体主義が生まれる。この場合、狭義にはファシズムと言っていい。具体的には世界恐慌以降顕在化したドイツ、イタリア、日本、つまり枢軸国の体制である。日本における天皇制のように、民族の伝統とみなされるものを国家の秩序根拠とすることにより、徹底的な国家統制を行った。

こうして20世紀においてファシズム、社民主義、社会主義の3つの体制が生まれた。このうちファシズムが第2次世界大戦をもって消滅した。残った社民主義と社会主義のうち、社会主義はベルリンの壁崩壊とソ連の解体をもって消滅した。社民主義は70年代以降の資本主義の成熟化に伴い次第に衰退していった。

また、この資本主義の成熟化に伴い、古い共同体性の残滓や産業資本主義による疑似共同体化がいよいよ衰退した。

その状況で現れたのがネオリベラリズムとネオコンサーバティズムである。一応、ネオリベが社民主義にとって代わり、ネオコンが保守主義の新たな形として現れた、と言っておこう。

■ネオリベとネオコン、その衰退

ここで注意しなければならないのは、国家主義の変質である。衰退ではない。ネオリベとネオコンにおいては、決して国家は衰退していない。ネオリベにおいて小さな政府が主張されるが、それを主導するのはあくまで国家である。言い換えれば、統治権力を構成するエスタブリッシュメントである。特にそれはアメリカに当てはまる。経済的・政治的エスタブリッシュメントこそが国家の中核にいてネオリベさらにはネオコン路線を推進したのである。

その意味で、ネオリベはリバタリアニズムと国家主義が結び付いた形態と言えるかもしれない。また、ネオコンは保守主義と国家主義の結びつきの新たな形といえるかもしれない。

しかし、ネオコンはイラク戦争の失敗で、ネオリベは世界金融危機で衰退した。それでは、これからの体制はどのように整理されるべきであろうか。

まず、ネオコンとネオリベの衰退で、国家主義がいよいよ見直されなければならないであろう。その場合、前提としなければならないのはグローバル化である。金融危機で露わになったのは、国家がグローバル経済をもはやコントロールできないという点である。これまでアメリカが中心となって、国家がグローバル化を推進してきたという外観があった。しかし、その過程でグローバル化はたとえ超大国でももはや国家の手に負えないものとなった。いま、グローバル化を、特に金融システムと国際紛争をいかにコントロールしていくかという課題がはっきり出てきている。G20はそのための新たな枠組みといえるかもしれないが、いまだ展望が開けているとは言い難い。国民国家という枠を超えてグローバル化自体の秩序を確保することは、おそらく人類が初めて直面する全く新たな課題だと言えよう。20世紀を主導してきた国家主義がいよいよ見直されねばならないのである。

次にそれとは逆のローカリティの問題がある。グローバル化の進展の中で各国のドメスティックな領域の衰退が進んでいる。日本においても、地方の衰退が言われている。日本的文脈でいえば、地方自治の推進ということになるが、要するに新たな中間集団主義が必要となっているのである。グローバル化にさらされた国家と個人。この二項だけではもはや社会は回っていかない。その中間に自律的な共同体があって、生活基盤を構成するとともに、自由と秩序のバランスを取っていく必要がある。

さらに、保守主義は国家と結びつくのではなく、健全な仕方でこうした中間的共同体と結びつくべきである。一定の伝統や共同価値は共同体には必要である。それが国家主義と結びつくことによる惨禍は経験済みだが、地方や地域のような中間的共同体であれば、むしろ、活性化や人々の結びつきの強化という点で有効な機能を果たすと考えられる。

■国家の役割の再定義と他者の受容

こうして、グローバル化、中間集団主義、保守主義、いずれも国家主義を縮減させる方向で進む必要があろう。とすれば、重要となるのが、国家の役割の再定義である。国家はどこまでの力を持つべきか、どこまでの力を持っていいか、それがあらためて検討される必要がある。20世紀的な国家主義は何ら自明ではないのである。

最後に、グローバル化、国家の役割、中間的共同体の働き等は、すべて「健全な仕方」でなされねばならない。「健全な仕方」とは、異なる立場を受け入れるということである。これこそがリベラリズムの根本である。グローバル化がどのように進展しようと、国家がどのような動きをしようと、中間的共同体がどのような共同価値を持とうと、自分たちの立場を他者に押しつけ、支配的になろうとすることは自由と秩序の破壊を招くであろう。さまざまな対立があっても、全体最適を目指して自由と秩序を堅持し続けねばならない。つまり、結局、リベラリズムこそが近代のもっとも根本的な価値あのであり、最終的なよりどころなのである。

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