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2009年6月25日 (木)

官僚主権から国民主権へ

「日本の民主主義のためには政権交代が不可避」の続きである。国民の利益となる政治にしようとすれば、自民党が政権から退く以外ない、と書いたが、ならば、民主党で万々歳なのだろうか?

■日本は民主主義国家か?

実は、そういうことが言いたかったわけではない。自民党が政権から退くのは不可避であるが、それは民主党になればすべてが順風満帆という意味ではない。事はそんなに単純ではないのである。

そもそも官僚主義を助長してきたところに自民党の問題があったとするなら、民主党政権に期待されるのは、当然官僚主義の打破である。官僚が制度設計から法案作成までやり、族議員を焚きつけ、大臣に「指示」(?)し、法案を通し、それを実施する。こうした官僚の一人舞台をやめさせることである。

しかし、ここで問題が生じる。官僚以外に誰が制度設計や法案作成ができるのか? 官僚が「指示」しないで、大臣はまともに仕事ができるのか? 何んともおぼつかない限りである。

事の深刻さは、わたしたち国民が思っている以上であろう。大体、わたしたちは日本の政治がよく見えていない。たとえば、多くの日本人は日本が民主主義国家だと思っている。確かに、表面上はそうだ。選挙もあるし、議会で審議もされる。しかし、郵政民営化などに代表されるように、表面はいかにもの体面を繕いながら、内容は完全に骨抜きにするというのは日本のお家芸なのだ。

民主主義もそうだ。いかにも国民が選んだ議員によってすべてが決められ、実行されているように見える。しかし、実態は、国民の選んだ議員をうまく使いまわしながら、官僚が計画し、決定し、実行しているのである。国民の投票行動とは関係のないところで国は動いていく。こういう体制をふつう民主主義とは言わないだろう。なのに、なぜかみんな日本は民主主義国家と思い込んでいるのである。

■天皇制から官僚制へ

これは、今に始まったことではない。明治以来、日本は民主主義国家であったためしがない。なぜか? 「国民はバカだ」ということが大前提となって国が運営されてきたからである。実際、近代国民国家というのは大変である。イギリスのピューリタン革命から名誉革命へ至るプロセスも、フランスのフランス革命から第三共和制へ至るプロセスも、市民階級(ブルジョアジー)が育ち、変革を担えるだけの実力をもったからこそ可能となった。

明治維新は武士階級がおこなった革命である。武士は当時の知識階級であるが、決してブルジョアジーではない。市民階級はと言えば、きわめて脆弱であったと言わざるを得ない。こういう国で国民国家としての統合を実現するのは(つまり、薩摩だ、長州だ、会津だといった内戦状態を早期に収拾するのは)、とても市民の力ではムリである。別のパワーが不可欠である。それが、すなわち天皇制であった。

「国民がバカ」だから、代わって政治を担う主体が必要である。天皇陛下こそが、全国民(臣民)の「お父様」として、子である(つまり半人前の)国民に代わって政治に関与される(統帥権)のだ、というわけである。国全体を家父長制とするとこによって、国民は永遠に半人前にされてしまったのである。

では、戦後どうなったか? 確かに、天皇を「お父様」とする家父長制は消えた。ならば、半人前だった国民はようやく一人前になったのか? 残念ながら答えは否である。今度は官僚が躍り出たのだ。東大法学部出身の頭のいい官僚。国民にしてみれば、あこがれの東大法学部。その優秀さを思えば、その頭脳で国を運営してもらったほうが国民が下手に手を出すよりよほど安心だ。優秀な官僚に対して、「バカな国民」。というわけで、戦後も「国民はバカだから」が手つかずで維持されたのである。

■官僚主権から国民主権へ 

そして、戦後64年。確かに戦後復興から経済成長まで、優秀な官僚によって支えられた政治はうまく機能したと言っていい。しかし、経済成長がひと段落し、経済的豊かさを達成し、日本が目標を見失っていくに伴って、官僚も目標を見失っていったように見える。国家が「豊かさ」という明白な目標を持っていたときには、官僚も公僕として全体最適なコミットメントができた。しかし、目指す方向が消失するとき、官僚も何が全体最適か見えなくなる。勢い保身と官僚仲間の利益という悲しいぐらいの部分最適に捉えられていく。年金問題や天下り問題に象徴されるように、官僚はダメさ加減を露呈するようになる。

いまや、「官僚がバカだから」と言わざるを得ない状況があちこちに見られるようになった。天皇家父長制が消失した後、今度は官僚制も機能不全に陥っている。とすれば、全体最適な政治を実行できる主体は誰なのか? 消去法から言って国民以外にないのである。

今度の選挙は歴史上初めて日本国民が政治の主体に躍り出るかどうかの分水嶺となる。「国民はもうバカではない」と高らかに宣言し、官僚を押しのけ、国民自身が政治主体となれるかどうかである。すなわち、各自の利己的利害という部分最適から抜け出、日本の全体最適を目指し、そのために主体的な投票行動をとり、それによって議員による全体最適な政治が行われる。そういう国民の在り方が不可欠となる。

問題は、自民党か民主党かではない。官僚主権か国民主権か、なのである。実際、民主党だからうまくいくなどという保証は何もない。相手は霞が関だ。そう簡単に引き下がるとも思えない。得意技の「骨抜き」で政権の意志を体よく無意味化するかもしれないし、それがうまくいかないと見るや表向きわからないような仕方で実質的に仕事をボイコットして無言の抵抗をするかもしれない。民主党になったはいいが、何をやらしてもうまくいかないということにもなりかねない。

そのときわたしたち国民はどうするだろうか? 「やっぱり自民党がよかった」とばかりに、その次の選挙ではまた自民党を復活させるのだろうか。ばかげた話だ。

■苦労して手にすべき民主主義

我慢して民主党を育てるにしろ、政界再編の中で新たな担い手を支持するにしろ、ともかく粘り強く国民主権を実現していく以外ない。戦後ずっと官僚が立法と行政を担ってきたのだ。議会自体が官僚の助けなくしては法案も通せず、質疑もままならないという状態でやってきたのだから、いきなり自分たちだけで取り仕切ろうとしても、そう簡単にはいかないのである。

何年かかるだろうか。10年? 15年? 仕方あるまい。フランスでも、フランス革命が起こってからようやく第三共和制になるのに80年かかっているのだ。その間、王制復古、ナポレオン帝政など、血で血を洗う争いである。日本人も苦労して民主主義を手にするという経験をすべきであろう。

いずれにせよ、「これまで自民党に任せてきた。今度は民主党に任せよう」などという発想ではどうしようもあるまい。わたしたち国民が「自分たちが担う」と思えるかどうか、それが日本の大きな転換点であると思う。国民が担えば万事バラ色というのではない。ひょっとして、とんでもない結果になるかもしれない。しかし、そうなったとしても、ともかく自分たちでやったのだと思えることが重要なのだ。官僚が自分たちの利益のためにやったことのツケを、責任のない国民が払わされるという図式だけは何としても変えるべきだと思うのである。

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