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2010年9月18日 (土)

アガンベンにおける「剥き出しの生」

生きる力はどこからやってくるのか? 心底自分を動かす力。疑いようのない自明な力。それはいかなるものであり、どのように出現し、いかにしてわたしたちの生を動かすのか。

この自明なる力についてこれから考えてみよう。(ここまでの議論は以前のエントリーを参照のこと。たとえば「生きる意味としての自明性」、「力の分析としての実践性分析」など)。

では、どこから出発しようか。

わたしたちの生にとっも自明なるもの、それは生きていること自体である。だから、そこから始めてみよう。

■生きていることの自明性

生きているか?と聞かれれば、やはり生きているとしか言いようがない。たとえどれだけ空疎な生であっても、死んでいるわけではないという程度であっても、生きていることは疑い得ない。

では、なぜ生きているのか?と問われれば、これは答えようがない。生まれるに際して、選択した記憶はない。気が付いたらこの世にいたのだ。よって、生きることになった理由など知る由もない。ともかく生きている、としか言いようがない。

理由も理屈もない。ただ、否定しようなく生きている。生きているものは生きているとしか言いようがない。だから、生きていること自体はただ自明なのである。

とすれば、すべてはここが土台となる。だから、まずこの端的な生について考えてみる必要がある。

そこで、話のきっかけとして、ジョルジョ・アガンベンの「剥き出しの生」を参照しようと思う。

■「剥き出しの生」と「生の形式」

アガンベンは「人権の彼方に」という論文集の中で、「剥き出しの生」をめぐって4つの小論を展開している。

彼によれば、「生」と呼ばれているものは、ギリシャにおいては「ゾーエー」と「ビオス」の2つの語で表現されていた。前者は単に生きているという端的な事実を表し、後者は個体や集団として形をもった生き方を表していた。

アガンベンは前者を「剥き出しの生」と呼び、後者を「生の形式」と呼ぶ。さらに4つの小論においてそのバリエーションを展開しており、たとえば、剥き出しの生にかかわるのが、難民であり、排除された人民であり、収容所である。

この区別は何ゆえ重要なのか? 「人権」をキーワードにして考えてみよう。

人権はわたしたちの常識では最も尊重すべき近代の価値の一つである。「人権侵害」「人権週間」「人権委員会」などなど、人権は常に近代人の意識に登る。

人間であれば人権を守られるのが当然であり、それは決して侵害されてはならぬ普遍の価値だ、というわけである。アガンベンが批判するのはこうした考え方だ。

考えてもみよう。本当に人権は守られていると言えるのか? 土日働いても、年収100万円台で暮さねばならない人たちがいる。老老介護で疲れ果て、手をかけ合う夫婦がいる。昼は事務パート、夜はコンビニで働き、ついに倒れるシングルマザーがいる。

これは、新聞やテレビでよく報道されることである。報道されるだけでも目に余るが、さらに報道されないところでは、いったいどれだけの人々がこうした社会的孤立に曝されているのか。

これは人権が守られている状態なのか? 到底そうとは言えまい。

そこで、人権をさらに尊重し、社会に広めよう、とアガンベンが主張しているのかと言えば、全くそうではない。彼は全然違う戦略をとる。ここからがポイントなのだ。

■人権とたとえば難民の生

アガンベンは、人権という枠組みから排除される人間が出るのは、近代国民国家の構造上の問題と捉える。つまり、避けようがないのだ。むしろこの構造を正確に把握し、別の戦略をとる必要がある。

そもそも近代に特有の「国民国家 nation state」の「国民 nation」の語源は、ラテン語の「natio(生まれ)」である。つまり、「生まれ」がそのまま国民となる。あるいは、「生まれ」が国民の条件となる。これが国民国家の根幹にある事態である。

日本に日本人として生まれたから日本国の国民となる。フランスにフランス人として生まれたからフランス国の国民となる。というわけである。(国籍取得の条件はいろいろあるが、ここでは国民の本来的定義を考えている)。

そして、「国民」であれば、人権が守られるべきである。確かに。では、「国民」でなければ? 残念ながら人権は及ばない。神が与えた天与の権利というふれ込みにもかかわらず、実際には国民国家という体制なくして人権は機能しない。人権思想を生んだ近代において、実質的な政治体制は国民国家以外存在せず、それゆえ、人権は国民国家の成員、つまり国民においてのみ意味をもつ。人権とは定義上、国民の権利なのだ。

今日大きく揺らいでいるのは、まさにこの根幹なのである。たとえば、アガンベンがひとつ指摘するのは「難民」の存在である。

彼によれば、大衆現象としての難民の最初の出現は、第一次世界大戦終わりに中欧、東欧で起こっている。それ以来、今日に至るまで難民は世界における重大問題であり続けている。

では、難民はどこの「国民」なのか? 名目上どこかの国民であるとしても、実質的には「無国籍者」と同等であろう。つまり、実際上どこの「国民」でもない。よって、定義上、彼らには人権はない。いや、そもそも国民国家の定義からするなら、そして近代には国民国家しか存在しないとするなら、彼らが地球上に存在できる場所はないのだ。

つまり、難民には国家に保護され、職業をもち、家庭を築き、市民としてふるまうという具体的な形をもった生がないのだ。そうした生の形(アガンベンはこれを「生の形式」と呼ぶ)をはく奪されているのだ。

この生の形式をはく奪された人間の在り方をアガンベンは「剥き出しの生」と呼ぶのである。

こうした難民の存在はたまたまか? 難民をみんな救って「めでたしめでたし」ということになるのか? 否である。

まさにこの難民の生こそが、これからの人間の基本的な在り方になるというのがアガンベンの主張なのである。

■避けられない「剥き出しの生」の出現

考えてもみよう。90年代以降のグローバル化の時代にあって、生まれに基づく「国民」という概念でカバーできる範囲はどんどん狭まっている。日本はこれからだが、ヨーロッパにおいては外国人労働者の比率は高まり、様々な社会問題を起こしている。彼らは「生まれ」という意味では近代が想定した「国民」ではない。彼らはその想定範囲の外部にいて「剥き出しの生」を生きざるを得ない。

それだけではない。グローバル化の時代の中で、国民国家だけでは「国民」を養うことができず、サッチャー・レーガンのように、政府のできることには限界を置かざるを得ない。つまり、政府の扶養の範囲外にこぼれ落ちてしまう大量の人々が出てくることを避けられない。国民国家は一定の国民を扶養するために、別の一定の国民を扶養外に排除しなければ生き残れなくなっている。(たとえば、財政健全化のために生活保護費を切る詰める、等々)。一定の国民を扶養することは、直ちに他の一定の国民を排除することを意味する。

かくして、国民国家は限界に至っている。「国民」の外部、「人権」の埒外に、排除され、「剥き出しの生」を生きざるを得ない人々が必然的に出現する。これはもはや避けられない。

だからこそ「剥き出しの生」は生の自明性にとって決定的な問題となる。どのようにしてか?

さらに見ていこう。

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