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2012年1月27日 (金)

社会契約論における自然状態

ここまで、中世から近代への移行期において、ヨーロッパ社会が神の支配から人間の自由へ、自生的国家から人為的国家へ、変化なき世界から変化する世界へ移り変わってきたことをあらためて確認した。(「叙任権闘争による神なき人間世界の始まり」、「アリストテレスの国家観の再移入から社会契約論へ」、「貨幣経済の発達と変化という近代の本質」)。ここから、いよいよ近代における自明性の変遷をたどりたい。

■生形式への力による集団の形成

自明性は行為、繋がり、自然という3つの先行性より成るのであった。(「自明性を再度振り返る」)。人は常にすでに何らかの自然や環境に巻き込まれ、互いに繋がり、特定の行為に指し向けられている。理屈や思考以前に、常にすでにこの原的な実践的運動に巻き込まれている。いかなる理論も論理も、どれだけ精緻に展開されようと、絶えず背後にの実践性を先行させている。

哲学も同じである。哲学を生み出すのも、常にすでに背後で先行しているこの実践性、自明性である。

が、この自明性がヨーロッパにおいて中世から近代への転換期に大きな変貌を遂げる。

そもそも、基礎的自明性は生存志向と自生的自明性より成り、生存志向はそれはそれで剥き出しの生と生形式への力より成るのであった。そして、生形式とは、繋がりの中で「何者か」であることであり、このことが人の集団であることを不可避とするのである。(「集団における事実的自明性という地盤」)。

なぜなら、人は集団内部での位置づけによってはじめて「何者か」になるからである。家族の中で父親であったり、地域共同体のメンバーであったり、国家に属する国民であったりすることによってのみ、人は人であることができる。この「何者か」であることを寸分も身にまとわない人間など、通常は想定不可能である。

もとより、アガンベンはあえてそれを想定をし(と言うか、実際にアウシュビッツ等にそれを見出し)、「剥き出しの生」と呼んだ。(「アガンベンにおける「剥き出しの生」」)。しかし、基本的には人は何の「形」もなく生きていくことはできない。生は必ず「形」を纏う。剥き出しの生は不可避的に生形式への力を帯び、「何者か」になろうとし、繋がりの先行性によって集団となるのである。人が集団を形成するのは、自明性に属するのだ。

だから、アリストテレスは国家を自然なものと見なした。「アリストテレスの国家観の再移入から社会契約論へ」で見たように、基本的な共同体である「家」(オイコス)には家長と女性、奴隷といった支配・被支配関係があり、そのうち家長だけが国家の運営に参画できた。つまり、集団の中で「何者」であるか(役割)が厳格に規定されており、人はその関係性の中でのみ生きることができたのである。人間がポリス的な動物であるとは、そうしたことなのである。

この関係性をアリストテレスは「「生まれ落ちたそのとき」から決定されている自然なもの」と考えていたのであった。なぜこの者が家長で、あの者が奴隷なのか? 理由などない。それは生まれながらに決定されていることで、なぜと問うても意味のないことなのだ。まさに生形式の力はこのようにして繋がりの先行性をベースとしながら自明なるものとしての集団を形成するのである。

■ロックの「自然状態」

さて、問題はここからだ。この自明性こそが近代への移行期に大きく変貌するのである。社会契約論である。

アリストテレスにとってはポリス的であることこそが人間の「自然」であった。この「自然」という言葉が、全く違った意味で使われるようになる。「自然状態」や「自然人」という言葉が、17世紀にホッブスやロックによって言われるようになるのである。

たとえば、ロック。彼は国家の存在を自明なものとは見なさなかった。それゆえ、そもそもなぜ国家なるものが形成されたのか? と問うた。その答えを導き出すために、最初に仮定を置いた。それが「自然人」であり、「自然状態」であったのである。

前のエントリー「貨幣経済の発達と変化という近代の本質」で見たように、貨幣経済の発達と宗教改革が「変化」という全く新しい考え方を生み出した。中世は世界を神の創造の秩序と見なし、変わらないこと、変えないことを大前提としていた。だから、「変化」というのはそれまでになかった考え方だったのである。変えていい。ならば、社会も今のままである必要はないし、国家も今のあり方が当然ではない。むしろ、それらを根底から覆してもいいはずだ。

実際、ロックが10歳のころピューリタン革命が起こっている。が、それもクロムウェルの死によって崩壊し、王制復古となる。変転極まりない動き。その中で国家の自明性は崩壊していったのである。では、国家とはそもそも何なのか? どのように形成されてきたのか? この問いがロックを捉えたとしても不思議ではない。そして、この問いを追い求めるのに有効な仮定として、「国家や社会が形成される前」を想定し、そこから国家の形成を後付けようとしたのである。

この「国家や社会が形成される前」の人間、それが「自然人」であり、自然人の状態が「自然状態」であった。

ロックの場合、自然とは、自由で平等な状態のことであった。国家や社会ができて、人間は複雑な関係に巻き込まれることとなったが、それ以前はどうだったのか? 人々を秩序づけるものもなく、人間を序列化するものもなく、束縛や拘束もなかったに違いない。とすれば、人間はおしなべて同じような存在だったはずで、貧富の差も身分の差もなく、平等であり、また束縛がない以上、自由であったに違いない。

社会もなく、国家もなく、平等で自由な人間たち。それが、出発点となったのである。(以下も含め、「自由と秩序~ホッブスとロック」参照)。

■ホッブスの「自然状態」とルソー

これに対し、別の自然状態を提示した同時代の思想家がいる。ホッブスである。

彼にとっての自然人は、知性と動物性を合わせ持つものと見なされる。するとどうなるか? まず、動物としては食べていかねばならない。ともかく食べ物を確保し、身を守り、生き残っていくことが最優先事項となる。知性など二の次だ。

しかし、知性は知性で黙ってはいない。知性には予見能力がある。だから、食べ物を確保するんだったら、今日の分だけじゃだめだ、明日の分も、来月の分も、来年の分も・・・確保しなくちゃ、ということになる。つまり、欲望は無限ということになる。

と、どうなるか? 限られた食べ物をめぐって奪い合いと争いが起こるということになるのである。これが有名な「万人の万人に対する戦い」、「人間は人間に対して狼である」につながる。終わることのない戦い。「孤独、貧困、不快、殺伐そして短命」、それが人間の定めだというわけである。

ロックとは全く異なる自然状態である。

ちなみにロックは「食べ物」が限られているとは考えなかった。「貨幣経済の発達と変化という近代の本質」で見たように、富は増やすことが近代の要諦である。ロックはそれを心得ていた。限られた食べ物を奪い合う必要などない。労働によって富は増やせるのだ。

とすれば、ホッブス的な闘争を自然状態と見なすことはできないであろう。実際、闘争があるということはすでにロックの言うところの労働が必要である。食べ物を得る行為、それは労働である。労働があるということはすでに人が自由に活動でき、かつその点で平等であるという前提がなければならない。富が増やせるのであれば、この労働の次元こそが闘争より根本的ということになる。だから、ロックにとっての自然状態は労働による自由と平等なのである。

さらに、自然状態で触れておかねばならないのが、ルソーである。

ルソーについては「自由と秩序~ルソーの課題」に書いたので詳しく再説はしないが、ある意味でルソーがもっとも自然状態の考え方を徹底したと言えるかもしれない。

ホッブス的闘争より、ロック的労働の方がより根本的であるとして、では労働は本当に自然状態と言えるのか? ルソーはそれを否定する。なぜなら、労働が可能であるというこはすでに人間どうしの一定の関係を前提としているからである。

人は労働によって収穫物を得る。労働した分の収穫物はその者の権利である。しかし、この権利を行使しようとすれば、収穫期まで土地を独占する必要が生じる。作付時には自分の土地だったが、収穫時には他人の土地というのであれば、収穫物の権利は保障されない。土地は収穫時までその者により占有されなければならない。かくして労働は土地の所有をもたらす。

土地の占有が生じれば、当然そこからあぶれる者が出てくる。彼らは土地占有者に隷属して生活の糧を得るか、その富を奪うかしか生き残る手立てがない。土地占有者はあぶれた者を支配するとともに、さらに土地を広げようと侵略や征服を繰り返すことになる。

つまり、労働はこうした支配関係や隷属関係を生むのであり、すでにある種の社会や場合によっては国家を前提としている。つまり、「社会や国家以前」としての自然状態では全然ないのだ。

それだけではない。ルソーにすれば、ホッブス的な闘争状態の原因を作っているのは、上記のようにむしろ労働なのである。

自然状態は、労働より根本的な次元にある。では、それをルソーはどう考えるのか。

■ルソーの「自然状態」、自己愛と哀れみ、その解体

ルソーは「社会や国会以前」、つまり人間が集団化する以前という状態を厳格に考えたと言える。集団化する前なのだから、人間と人間は互いに何の関係も持っていなかったはずだ。持つとしても、たまたま出くわしたとき、といった場面に限られるが、それも恒常的な関係にはならない。そんな状態だったはずである。

何の社会的習慣も持たないとするなら、それは現在わたしたちが考える人間というより、野生人というべきである。野生人は基本的に動物であるが、違うところは自然の中で自由に振舞い、工夫し、能力を向上させていけるところである。

この動物としての野生人は2つの本性を持っている。ひとつは「自己愛」である。ひたすら自己保存を求める自然な情であり、言うまでもなく動物も持っている。いまひとつは「哀れみ」である。これは同じ種に属する同胞が苦しんでいるのに接したとき、同情し助けたいという衝動を覚える感情である。ルソーは、これも動物にも兆候のある生得的感情だと考えている。つまり、自己愛も哀れみも社会性に属するのではなく、動物的本性に属するのである。

自己愛と哀れみは絶妙のバランスをとる。確かに自己愛は自己保存のためにエゴイスティックな欲求を追求する。が、他方で苦しんでいる同胞に出会ったなら、何とか助けたいと思う。この2つのベクトルのバランスのゆえに、社会が存在しないにもかかわらず、人間は自由に振舞いながら問題なく生きていけるわけである。

しかし、この自己保存が労働となり、土地の占有となるに及んで、哀れみが機能しなくなる。自己愛は「自惚れ」となり、バランスは崩れ、奪い合いと騙し合いが蔓延する。すなわち、ロック的な労働およびホッブス的な闘争の次元である。ここでロックは自然権(生命と所有)を守るために社会契約の必要を説き、ホッブスは社会契約とともにリヴァイアサンによる強権支配の必要を説くのである。

かくして、近代は人間の集団化を自然状態から説き起こそうとする。では、それはどのような帰結を生むのか? さらに見ていこう。

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