生きることに意味はあるのか?
香山リカの「しがみつかない生き方」がベストセラーになっている。わたしも、新聞広告にあった「<勝間和代>を目指さない」にひかれて読んだ。「本当に「無趣味」はおすすめか?」等で書いたが、キャリアを磨いてビジネス上の成功を目指すといった生き方を一義的に奨励する言説にはどうも違和感を感じる。その象徴としての<勝間和代>。それを「目指さない」と言う。興味をひかれた。
■生きることに意味はない?
第6章には「仕事に夢をもとめない」というのもある。「夢をめざせ」といった煽りが横行する中で、ポイントを衝いている。同感である。(たとえば、「なぜ「好きなことを仕事にしよう」と言われるのか?」)。
だが、この本を読んでいてさらに本質的な次元について考えさせられた。第9章の「生まれた意味を問わない」である。わたしには、これこそが本書で最も根本的な次元でないかと思われる。仕事に夢を求めることはもとより、恋愛にすべてを捧げようとするのも、自己PRをして他者に認められようとするのも、白黒はっきりつけようとするのも、子どもにしがみつくのも、お金第一になるのも、結局、生きている意味が欲しいからではないのか。何でもいい、自分の人生に意味があると思いたいからではないのか。
いま、日本列島に暮らす人々にとって、もっとも一般的で広範な問題は、この「生きている意味が見当たらない」というとではないだろうか。
「生きることに意味があるか?」と問うたとしよう。(こんなややこしい問いを問わなくて済む人は幸せだ)。さて、その答えは?
答えがこれほど自明で、しかも言うのをはばかられる問いというのも珍しいのではないかと思う。あまり大きな声では言えないが、当然、答えは、「ない」、であろう。
「あるわけないじゃないか、生きる意味なんて」ということだ。しかし、何と言いにくい回答か! 世の中には本当のことを言ってはいけないということもある。こうしたこともあまり声高に言わないほうがいいのだろう。しかし、香山リカはあっさりと言ってのける。「なぜ生まれた価値、生きる意味が必要なのか」と。
彼女はこの本全編を通して、ひたすら、生きる意味を求めるな、そんなこと求めるから何かにしがみつかなきゃならなくなる、で、苦しくなる、病気になる、やめたほうがいい、生きる意味なんていらないじゃないか、と語り続けているように感じられる。
しかし、その言葉にすんなりと従える人はどれだけいるだろうか?
■自前で調達しなければならなくなった「生きる意味」
「生きることに意味などない」という言い方には、少し解説がいる。私見では「意味がない」というのは、社会が生きる意味を提供してくれないということを指している。昔、高度経済成長期という時代があった。そのころは、会社で働いているだけで日本の発展のために尽くしていると思えた。現に、本当に日本はどんどん豊かになり、生活環境はみるみる良くなった。社会に帰属しているだけで生きる意味を感じられたのである。
ところが、そんな時代も終わり、特に90年代には平成不況の暗闇の中で方向性が全く見えなくなった。どっちに希望の光があるのか全くわからない。働いても働いても、どこへ向かっているのか、この先に良いことがあるのか、そもそも日々の苦労に何か意味があるのか、まったく見えなくなった。社会が生きる意味を供給してくれなくなったのである。
とすれば、意味は自分で調達する以外ない。実際、自分で調達することに成功した人たちもいる。その代表が「好きなことを仕事にした」人であろう。小さいころから動物が好きで好きで、猛勉強の末獣医になった、とか。昔から機械いじりが大好きで、工学部を経てエンジニアになった、とか。今は天職だと思っています、といった具合である。こうした人たちは確かにいる。彼らは仕事に喜びを見出し、生きがいを感じ、それゆえ生きる意味を見出している。生きる意味は、社会が供給しなくたって、自分で調達できているのだ。
だが、これは思うようにコントロールできることではない。子どものころ動物を好きになったのは、意図してではないだろう。いわば、気が付いたら好きだったということに違いない。特に動物好きでもない人が、計画的に動物好きになって獣医になるなどということはできまい。
つまり、「好きなことを仕事にする」ことは意図的、計画的に達成できることではない。とすれば、それは、ほとんど偶然に巡り合う以外ない、ということになる。子どものころたまたま子犬を飼って動物が好きになったといった具合で、たまたま何かのきっかけで思いもよらずそうなる、といったことが必要になる。ということは、その「たまたま」が訪れない人には永遠に「好きなことを仕事にする」ことはできない。好きなことを仕事にできない人は、これはもう、どうしてもできないのである。
敷衍して言えば、生きる意味の調達は偶然のめぐり逢いによるのであって、その僥倖が訪れない人は、永遠に生きる意味を調達することはできないのだ。
■「生きる意味」格差社会
かくして、いわば、「生きる意味の獲得格差」とでも言うべき格差が生じる。生きる意味を調達できた人は、ポジティブに希望を持って生きがいある人生を歩んでいける。しかし、調達に失敗した人は、生き方が定まらず、居場所がなく、空しく、だから、香山リカが言うように、何かにしがみつき、一歩間違えばメンヘルになる。
いまは経済格差が深刻だと言われる。しかし、実は、この「生きる意味」格差のほうがよほど深刻ではないかと思う。生きる意味がない、方向性がないという事態こそがいまの社会のもっとも根本的な次元に横たわっている。そのことを知っておくことは重要だと思うのである。


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