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<title>ＩＴ　そして人間、社会</title>
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<title>共同体性の解体と「小さな文脈」の併存</title>
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<description>高度経済成長という「大きな文脈」が70年代以降縮減していった。そのことが「終わり...</description>
<content:encoded>&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;高度経済成長という「大きな文脈」が70年代以降縮減していった。そのことが「終わりなき日常」としての日本という「悪い場所」を露わにした。（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9436.html&quot;&gt;高度経済成長という「大きな文脈」&lt;/a&gt;）。それについてもう少し見ておきたい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■60年代までの共同体性の解体&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;70年代以降の変容については他のエントリーで書いた。ここでは関係するいくかの点を挙げておきたい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;まず最初に経済的要因を指摘しておく必要がある。（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7244.html&quot;&gt;近代における自由と秩序の変遷⑥～７０年代以降の経済的変容～」&lt;/a&gt;）。やはり、一番大きいのは市場が成熟化したことだ。少なくとも先進国では、モノが行き渡ったのである。つまり、あれほど望んだ「豊かさ」が達成されてしまったのだ。高度経済成長という大きな文脈が求めてきた目標が実現し終わったわけである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;とすれば、この文脈を支えてきたベクトルも消失する。人々は生きる方向性を失い始める。「豊かさ」だけを目指してお父さんは懸命に働いてきた。お母さんは家事にいそしんできだ。子どもは勉強してきた。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;しかし、その「豊かさ」という目標はリアリティを失っていった。父は働く意味を見失う。母は家事に縛りつけられる理不尽に耐えられなくなる。子どもは勉強する動機を失う。こうして家族はバラバラになる。家族というものを結合していた求心力が急速に失われたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;さらに地域共同体や血縁共同体も解体する。（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-8b17.html&quot;&gt;近代における自由と秩序の変遷⑦～７０年代以降の社会的・文化的変容～&lt;/a&gt;」）。共同体は同質性を本質とする。村落に見られるように、何代もに渡って互いに熟知の間柄を保ち、同じ生活価値を共有し、同じ掟を守る。しかし、都市化や郊外化に伴って、異質性が人間関係の基本となっていく。故郷を後にして都会に出てきた人々は互いに見知らぬ者である。生活価値観も異なり、習慣や風習も違う。この異質な者同士が社会を形成して公共的生活を営んでいくところに近代の特質がある。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;同質性の関係から異質性の関係へ。このプロセスで地域社会や血縁の分厚い絆も解体していったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;かくて、60年代にはまだかろうじて残っていた共同体性が消えていった。高度経済成長という大きな文脈を支えてきた価値の源泉が消失し、それゆえ、家族や血縁、地域社会に支えられて駆動されてきた高度経済成長のベクトルは無力化していった。すなわち、「豊かさ」という意味、共同体的絆という価値、両者の結びつきとしてのベクトルがスパイラル的に相互作用するなかで解体を起こし、全体として大きな文脈が縮減していったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■小さな文脈の併存&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;では、そのあとで何が起こったのか？　大きな文脈はいくつもの小さな文脈に分裂したのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;高度経済成長という大きな文脈においては年々豊かになることを実感できたし、それによって家族の幸せ度が増していると感じられたし、さらに言えば、日本の発展に寄与していると信じることもできた。しかし、この大きな文脈が消失したいま、残ったのは小さな文脈だけ。たとえば、会社勤めの一人の人を考えてみよう。会社で一生懸命働いても、給料も上がらず、家族の幸せにつながっている実感もあまり持てないが、しかし、仕事は仕事でまずまず面白い。家庭は、仕事とは別に、それなりに充実感を与えてくれるし、苦労もあるが楽しみもある。日本の未来なるものには関心もないが、今は学生時代の仲間とのバンド活動に結構熱中している。とまあ、こんな感じである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;つまり、仕事は仕事の文脈、家庭は家庭の文脈、友達関係は友達関係の文脈と、それぞれ小さな文脈が複数あって、それぞれに小さな価値や小さな意味がある。しかし、それら全体を統合するような大きな文脈がない。そのため、小さな文脈は互いに乖離的に併存している。緊密にはつながっていない。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;この乖離的状況は、価値序列の解体を意味する。大きな文脈があれば、仕事、家庭、友人は、たとえば豊かな未来といった意味のもとに有機的に結びついて、大きなベクトルを成すであろう。そのベクトルの向こうからはたえず新しい世界が出現し、これまでなかった意味が現れるであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;しかし、小さな文脈が乖離的に併存する状況では、それらを結びつけるベクトルはなく、それゆえ、その彼方から現れる新しい世界もない。もちろん、新しく小さな文脈が現れることはある。しかし、それは併存する小さな文脈が一つ増えるだけのことである。中身は違っても、小さな文脈であることに変わりはない。人生や社会や国に統合的な未来を与えてくれるような新たな意味などではありえない。小さな文脈が一つ増えたところで、人生全体が大きく変わることなどないのだ。なぜなら、小さな文脈はごく限定された些少な力しか持たないからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;こうして一つの逆説が生まれる。小さな文脈は場合によっては次々と現れる。新しいライフスタイル、新しいファッション、新しいブランド、新しい趣味、新しいレジャー、新しいゲーム、等々。すべてはめまぐるしく変化する。しかし、人生を根本から変えるような新しさを持ったものなど一つもない。その意味では新しいものなど何もない。目まぐるしく変化しているのに、何も変わらない。人生にとっての意味という点では、どれもこれも似たり寄ったりだ。結局、手を変え品を変えさまざまなものが現れてくるように見えるが、すべては同じなのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;このことは、実は、人間の行動を理論化するという近代における本質的事態を加速するのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>社会・歴史</dc:subject>

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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9436.html">
<title>高度経済成長という「大きな文脈」</title>
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<description>先のエントリー（「現代日本にまで至る目的なき現状肯定の思想」）で紹介した福田和也...</description>
<content:encoded>&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;先のエントリー（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-fcde.html&quot;&gt;現代日本にまで至る目的なき現状肯定の思想&lt;/a&gt;」）で紹介した福田和也の「混然一体」や椹木野衣の「悪い場所」の思想（佐々木敦「ニッポンの思想」）についてもう少し考えたい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■文脈とは何か&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;「悪い場所」とは、「閉じられた円環」という日本に特有な生の空間のことであった。目標とと思い進んでいっても、結局それは元あった現実の別の現れに過ぎない。新しいと思っても、結局同じものの別の姿にすぎない。結局、根底ですべてのものは「混然一体」であり、あらゆるものは同じ源泉から手を変え品を変えて現れてくるにすぎない。どんなに見た目が違っても、元をたどればみな同じで、新しいものは何一つない。延々と続く同じことの繰り返し、「終わりなき日常」、それが「悪い場所」なのであった。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;こことは異なる別の世界の不在。今とは異なる未来の消失。だから目指すべき方向性も生きる意味もない。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;なぜこうなってしまうのか？　よく言われるのは、大きな物語の消滅ということである。大きな文脈の消滅といってもいい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;文脈、コンテクストという言葉を少し定義してみよう。大きな文脈の消失と言うとき、それはわたしたちに生の方向性を与えてくれるような前提が消えるということである。ということは、文脈とはそうした生の前提のことである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;それは本質的に一定のベクトル、方向性を内在させている。そこに身を置いていれば、どちらに向かて生きるべきかおのずとわかるような方向性である。目指す目的を与えてくれる、それが文脈である。ピアニストにとっては、たとえば、ピアノへの情熱に駆られてショパンコンクールでの優勝を目指しているといことが文脈となる。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■価値と意味&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;この方向性を構成する要素は、大きく二つある。意味と価値である。比喩的に言うなら、意味とはハンドルで、価値とはエンジンである。（上の例で言えば、ショパンコンクールでの優勝が意味で、ピアノへの情熱が価値である）。意味は方向を指し示す。どちらに向かえばいいかを教える。それに対し、価値はその方向へ向かって人を駆動する。いくら方向を示されても、そこに価値があると心底思えなければ人は動かない。内奥から湧き上がる価値の働きがあればこそ、その方向へ向かって人は進む。価値は力である。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;価値が駆り立て、意味が導く。両者のこうした連動が一つのピンと張りつめたベクトルを生み、このベクトルを中心に文脈という一つの生きる場が形成される。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;文脈形成においてより決定的な役割を果たすのは価値であろう。価値が湧出しなければ何も始まらない。価値が湧出して初めて一つの生きる場が形成され始める。「価値がない」とはそもそも生きるに値する何ものもないということである。何らのベクトルをも生み出す力がないということである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;そのうえで、意味が価値とともにベクトルを形成する。ある事柄がこの方向性に合致しているとき「意味がある」ということになり、合致していないとき「意味がない」ということになる。つまり、いったんベクトルが形成された上で、その方向性に合致しているかどうかで意味のあるなしが決まる。上記のピアニストにとっては、言うまでもなく、ショパンコンクールでの優勝は大きな意味を持つ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;（以上の言葉づかいはあくまで「文脈」を定義するための便宜にすぎない。実際、意味や価値といった日本語は必ずしもこうした用いられ方をするわけではない。また、そもそも意味と価値はベクトルを介して不可分に結び付くので、区別することは難しい。実際、これまで「生きる意味」と言ってきた事態は、上の定義では「生きる価値」とも言える。そこで、「文脈」等の定義にかかわるときにのみ上記の内容でこれらの言葉を使い、他は日本語の自然な使用に従うこととする。）&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■高度経済成長を支えた共同体性&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;さて、以上の定義をもとに、大きな文脈とは具体的に何を指しているかを考えてみよう。まず、高度経済成長期を考えてみよう。確かに、この時期は大きな文脈といえるものが存在していた。人々はたいてい社会全体が一定の方向へ向かっていることを自明なこととして了解していた。全体としては（欧米のように）豊かな社会になることが目指された。そのブレークダウンとして、各企業では飽くなき成長が目指された。さらに各家庭では欧米風の消費と生活の豊かさが目指された。もちろん例外はあろうが、多かれ少なかれそうした方向性が自明のことであった。この方向性に合致することは意味のあることとされた。カラーテレビを買うことも、マイカーに乗ることも意味のあることであった。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;では、このような「意味」を生み出した「価値」とは何であったのか。高度経済成長期という大きな文脈を生み出した力は何だったのか。この問いに答えるのは要因が複雑すぎて極めて難しい。しかし、この後の議論を考慮して、一つ挙げておく。それは、「共同体性」の持つ力である。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;当時は古き共同体の崩壊途上であった。と言うことはつまり、まだ古き共同体が残っていたということである。都会へ出て働くとしても、故郷には両親はもとより祖父母もいて、「辛くなったら帰っておいで」と言ってもらえた。実際辛くなって帰っても、当座の仕事ぐらい町の顔役が世話してくれた。就職するときも、両親や祖父母、将来の妻や子供のことを考えて、みんなが豊かになっていけるよう一生の仕事として職を選んだ。実際、家族の豊かさと幸せを信じて、懸命に働くことができた。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;高度経済成長を駆動したのは、実際はこうした古き共同体的な絆であったように思う。地域社会や血縁の分厚い結びつきのもと、家族の幸せが素朴に信じられたからこそ、無心で働けたのだ。このような共同体的価値が「豊かになる」という目標設定を可能にし、その意味を活性化して一つの方向性を生み出し、高度経済成長という大きな文脈を形成したのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;さて、この大きな文脈は70年代以降縮減して行った。そのことが、「終わりなき日常」としての日本というこの「悪い場所」を露わにしたと想定することができる。では、それはいかにし起こったのか？&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
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<dc:creator>multiport</dc:creator>
<dc:date>2009-10-31T18:19:13+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-fcde.html">
<title>現代日本にまで至る目的なき現状肯定の思想</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-fcde.html</link>
<description>先のエントリー（「本覚思想と即の思想に見る日本の本質」）で、本覚思想と即の思想の...</description>
<content:encoded>&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;先のエントリー（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-646a.html&quot;&gt;本覚思想と即の思想に見る日本の本質&lt;/a&gt;」）で、本覚思想と即の思想の中に、目指すべき目標との距離がどんどん縮まり、最後は消滅し、結局今ここにそのままで真理が見出され、現状が肯定されるという日本に特徴的な考え方について見てきた。もちろん、本覚だの即だのと現代の日本人が意識しているわけではない。しかし、それは底流としてわたしたちの生の場に流れている。次にそれを、現代の日本の思想の中に探ってみたい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■福田和也に見る「混然一体」の思想&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;そこで、佐々木敦氏の「ニッポンの思想」を参照しようと思う。この本は80年代のニューアカからはじめてゼロ年代の東浩紀に至るまで、現代日本の思想の場の展開をポイントを絞ってまとめたもので、わたしには非常に面白かった。その中で、今の文脈からして、福田和也と椹木野衣の項を取り上げる。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;佐々木氏によれば福田和也の思想の核心は「日本とは空無である」という点にある。福田はやまと歌の本質として「みやび」という概念を抽出し、それを宮廷の歌舞の儀がにぎにぎしくたおやかに行なわれているさまを示すものとしたうえで、福田の言葉を引用している。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;古事記を彩る神々や大王の激しく賑やかな振るまいにおいては、政治や神事、あるいは暴力や性の放埓は混然一体としており、麗しい仁政も、浮かれすぎた逸脱も、その総てが「みやび」である。倫理や人知を超えた神話や伝説の生まれる時に、この「みやび」な空間で人獣草木らのあらゆる存在が奏でる調べが、「やまと歌」である。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;注意したいのは「混然一体」ということである。政治・神事と暴力・性はふつう区別するだろう。麗しい仁政と浮かれすぎた逸脱もふつう区別するだろう。もちろん、政治・神事が良くて、暴力・性はダメ、仁政は良くて、逸脱はダメ、というように区別するのである。しかし、「神々や大王の激しく賑やかな振るまい」においては、これらは「混然一体」で、区別されない。それらすべてが一つとなって、踊られ、歌われ、奏でられる。この状態が「みやび」であり、そこで歌われるのが「やまと歌」だというのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;先のエントリーでわれわれは穢土と浄土が区別されず、色と空が区別されないという日本思想の特徴を見た。それと同じ構造がここにも見いだされれる。政治・神事と暴力・性が区別されない。仁政と逸脱が区別されない。区別しようとすれば、政治・神事の方が良い、仁政の方が善という価値を掲げなければならない。掲げればそれを目標として達成のためのプロセスを歩むということになろう。ヨーロッパ的思想はそういう構造を持つ。（佐々木氏の描く浅田彰や柄谷行人もポストモダニズムを通過しながらも、ヨーロッパ思想的区別立ての立場に立つ）。しかし、福田の説く日本の核心はそうした区別立てのない世界、一体の世界なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;もし、古事記の段階ですでにこうした「混然一体」が日本の本質となっていたとするなら、歴史の順番からして、仏教の方がこの本質の中で本覚思想の改変や即の思想の強調へと変質したと言うべきであろう。古事記成立の段階ではすでに仏教は確かな地歩を確立していたと思われるが、それでも、仏教は日本的「混然一体」の本質の中で元々とは異なる姿へ変貌していったのである。ならば、この「混然一体」の本質は日本にとってよほど根深いということになろう。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;しかし、理念を掲げず、それへ向かって進んでいくということがないなら、一体、何を目的に生きていけばいいのか？　それでは生きる意味もないではないか？　そう、その通りである。だから、福田はこの本質を「空無」と呼んだのであり、佐々木氏はさらに福田がそれを「虚妄」と呼んでいることに注目している。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;そこで福田は「みやび」の「家郷」である、美しく豊かなる「やまと＝日本」は、しかし同時に「虚無＝空無」なのだ、と言ってのけます。福田和也の「日本」観、つまり彼の「思想」の最大のユニーク・ポイントは、ここにあります。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;確かに、それは虚無であり、空無である。しかし、佐々木氏によれば、浅田彰や柄谷行人はこうした日本の本質を「無の場所」や「自然＝生成」として批判しているのだが、福田はそれを肯定した。現実を見ろというわけである。良くも悪くもそれが日本なのだ。抽象的な理論でいくら批判したところで、この日本という場から逃れられるわけでもない。ならば、この日本の空無と対面すべきである、と。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;ここからわかることは、「混然一体」という日本の本質から、わたしたちはそう簡単に逃れられるものではないといことである。肯定するかどうかはともかくとしても、それを無視して済ますことは到底できないのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■椹木野衣に見る「閉じられた円環」としての日本&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;こうした日本についての状況認識を引き継ぐ者として「ニッポンの思想」からもう一人、美術評論家の椹木野衣を引こう。彼は端的に「日本」を「悪い場所」と呼んでいる。佐々木氏はそれについて次のように述べている。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;椹木は同書の第一章で、彦坂尚嘉のエッセイから抜き出した「閉じられた円環の彼方」というフレーズを元に、この国の美術においては、「閉じられた円環」の「彼方」をめざそうとする（つまり何らかの意味で「前衛」を志向するような）運動は、なぜか必ず、その「起源」としての「閉じられた円環」へといつのまにか回帰してしまうのだと指摘します。つまりそれは「美術史」の「展開＝回転」が成立し得ないということ、いわば大文字の「歴史」が生起し得ないということです。椹木はこの「非＝歴史性」を、「日本」という国に本質的なものだと論じ、それを「悪い場所」と名付けます。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;この一見美術史について書かれてあることは、この後の箇所でオウム事件への言及にもあるように、結局日本全体の歴史にかかわる。「閉じられた円環」による「歴史」の不在ということは日本自体の本質なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;「今ここ」から、「彼方」を目指そうとする。しかし、気が付いたら「今ここ」に戻っている。結局回り回って戻ってしまう。円環である。しかも「彼方」へ突破できない以上、それは閉じている。「閉じられた円環」それが「日本」なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;浄土を目指して歩もうとする。しかし、結局、この現世の只中に浄土はあるという。仁政を目指して歩もうとする。しかし、結局、仁政も逸脱と変わらずこの「空無」の世界に混然一体としてあるという。わかるだろうか。つまり、本覚思想、即の思想、そして福田和也の「空無」の中に見てきたのと同じ構造が、この「悪い場所」においても説かれているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;そもそも、「彼方］は「今ここ」とは異なるものである。異質なものであり、その意味で他者である。今ここの現実とは明確に切断された別の世界があるからこそ、そこに目的を見出し理念を見て、一つの強力なベクトルが生まれる。そのベクトルに従って、そこを目指して進んでいくということが生じ、その果てに別世界に到達し、まったく新しいものが現れ、それによって歴史が刷新され、展開する。これがいわばヨーロッパモデルである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;しかし、日本は違う。「彼方」だと思い進んでいき、到達したと思っても、結局それは元あった現実の別の現れに過ぎない。新しいと思っても、結局同じものの別の姿にすぎない。なぜなら、根底ですべてのものは「混然一体」だからだ。あらゆるものは同じ源泉から手を変え品を変えて現れてくる。どんなに見た目が違っても、元をたどればみな同じなのだ。だから、新しいものは何一つない。それゆえ歴史も刷新されない。展開もしない。だからむしろ歴史はない。「悪い場所」とはそういう日本の本質を言っているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■現在も続く「生きる意味」の不在&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;こうしてわれわれは現代の日本に達した。真に他者性を持った「彼方」がなく、それゆえ、そこを目指して歩んでいくということが実質的に意味を持たず、何一つ新しいものが生じず、どれだけ頑張って動いても同じところをめぐっているにすぎない。宮台真司はそれをオウム事件の時に「終わりなき日常」と呼び、あえてそれを「生きろ」と言った。また、上述書に椹木による福田和也のインタビューが引用されているが、そこで福田は、日本に生まれたことは書き換え不可能な宿命であり、その宿命性をもう一回きちんと取り上げねばならない、と言っている。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;その通りだと思う。そもそもわたしは香山リカの「しがみつかない生き方」に端を発して、生きる意味を社会が提供してくれない現在をいかに生きるかを問うたのであった。そして、そもそもそうした社会の歴史的位置づけを問題にし、日本の思想をさかのぼったのであった。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;その結論はこうである。「生きる意味」が供給されないという状況は何も70年代以降に始まったことではない。むしろ、日本は古事記の時代から「生きる意味（目的、理念）」など問題にしてこなかった。だが、唯一例外があった。それが、明治以降から戦後の高度経済成長期に至る欧米に追い付け追い越せの時代である。このときにはまがいなりにも明確な目標があり、それへ向けて突き進むということが行なわれた。それゆえ、国民もこの目標を共有できた。しかし、オイルショック以降、それも消失した。しかし、それは元の状態に戻ったにすぎない。何も目新しい状況に直面したわけではない。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;だから、この「宿命」を受け入れて、あらためてこの「終わりなき日常」を生きるすべを考えるべきであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;次は、別の視点からこの生き方を考えたい。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>社会・歴史</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-25T18:33:57+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-646a.html">
<title>本覚思想と即の思想に見る日本の本質</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-646a.html</link>
<description>先のエントリー（「ヨーロッパ思想の根底にある目的志向」）で見たように、ヨーロッパ...</description>
<content:encoded>&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;先のエントリー（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-20f5.html&quot;&gt;ヨーロッパ思想の根底にある目的志向&lt;/a&gt;」）で見たように、ヨーロッパ思想の核心には他者性（異質性）と階梯の思想がある。旧約聖書においては、神の声を直接聞いたら人は死ぬと言われるような神の絶対的な他者性が語られた。プラトンにおいては、遥か彼方の神に至るための困難ではあるが不可能ではないプロセス（階梯）が語られた。こうした思想が底流となって、今日においても、「目指すべき理念と目的を掲げ、そこへと至る最も有効な道筋を決定し、それを実行する」という合理性と戦略性が欧米の特徴となっている。そして、日本が不得意とするのは、ほかでもないこうした合理性と戦略性であり、その不得意さの背景を日本の思想の中に探りたいと思うのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■本覚思想&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;本覚思想という仏教の考え方がある。たぶん、最澄の悉有仏性説（一乗思想）や空海の即身成仏思想あたりに源を持ち、日本仏教に独特な思想とされるもので、ありのままの現実がそのままで悟りであるとする考え方である。悟りを遠い先の目標とは考えず、今現在をそのまま悟りとして肯定するのである。（つまり、理念や目的は掲げないのである）。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;一般的に（とはつまり日本以外では）、仏の悟りは現世だけで得られるものではなく、幾度も生まれ変わり修業をしてはじめて到達できる遠い目標とされた。しかし、空海は現世だけで直ちに仏にになれると説いた（即身成仏）。それが可能になるのは人間がありのままですでに仏の本性を持っているからである（悉有仏性説）。現実の人間が仏としてありのままに肯定されるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;同様のことを浄土仏教を例に見てみよう。源信あたりの浄土仏教は極楽浄土と人間の間にまだ大きな距離があった。たとえば、念仏というのは、主に、何昼夜にもわたる苦行の末、ありありと阿弥陀仏が観想されるようになるある種の高度な精神的境地を意味した。それに対し法然は阿弥陀仏の名を称えればいいという称名念仏に決定的に力点を置いた。つまり、自力修行は不要で、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで極楽往生できると主張したのである。ここにおいて、現世と極楽浄土との距離は一挙に縮まるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;しかし、称えるとしても、往生のためにはどのぐらい称えれば十分なのか。できるだけ多く称えるべきか（多念義）、それともただ1回称えればそれでいいのか（一念義）。１回で十分であると強く主張したのが親鸞である。多く称えなければならないとしたら、それがまた自力修行となる。他力こそが弥陀の本願の本質だとするなら、当然、ただ１度で十分のはずである。１度「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、極楽浄土に往生できる。かくして、現世と極楽浄土の距離はぎりぎりにまで縮まるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;この距離を完全に取り去ったのが一遍である。一遍は民衆に配る「南無阿弥陀仏」のお札の下部にある時期から（熊野の示現のあと）「六十万人決定往生」と書きいれるようになる。六十万人とは「一切衆生」、つまりすべての人間という意味である。したがって、「六十万人決定往生」とは、すべての人間の往生は決定してしまっている、ということだ。誤解を恐れずに言えば、修業はもとより、念仏を唱えることさえ不要である。すでに往生は決定しているのだから。こうなると、もはや現世と極楽浄土とを区別することさえ必要なくなる。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;実際、一遍は生前から阿弥陀仏の化身とされた。これは、法然や親鸞には考えられないことだ。彼らはあくまで念仏者であるにすぎず、阿弥陀仏を拝する身である。彼ら自身が阿弥陀仏であるなどという発想は逆立ちしたって出てこない。しかし、一遍は阿弥陀仏の化身と目されたのである。それは、現世と浄土との区別がほとんど消失していることの表れである。踊り念仏もいわば極楽浄土のパワーが今ここに噴出しているということであろう。浄土が今ここで噴出しているからこそ、踊躍歓喜したのである。この現世がそのままで浄土である。それが一遍の浄土思想の核心である。（もちろん、それが一遍のすべてではないだろうし、そもそも現世を極楽浄土として生きる生き方が「捨て果てて」という途方もない苦行を招くという逆説に注目する必要があるが、ここでは割愛する）。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;源信においては、極楽浄土は西方の遠い彼方の目標であった。その距離が法然と親鸞で称名のゆえに一挙に縮まった。そして、一遍においてはこの距離はほぼなくなったのである。日本の浄土仏教の歴史は、現世と浄土の距離が縮まり、ほぼ消失するプロセスであったと言える。それは日本における仏教消化の一つの典型であろう。まさに本覚思想の好例がここにあるのである。ここではないどこかに掲げられた理念が消えるのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■即の思想&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;このことから、直ちに、即の思想が導き出される。現世がそのまま浄土である、とは、また、「穢土即浄土」とも言われる。日本仏教は昔から宗派を問わす般若心経を好んできたが、そこに有名な「色即是空、空即是色」という言葉がある。「即」ということでもっとも有名なのはこのフレーズであろう。「穢土即浄土」はその一つのパラフレーズと考えてよい。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;形ある世界（色）がそのままで空であり、空がそのままで形ある世界である。色とは一応わたしたちの生きているこの世界と考えていいであろう。空はいわば真の世界、実相である。ふつう、わたしたちのこの凡俗の世界から真の世界に到達しようとすれば大変なプロセスが必要と考えるが、般若心経は違う。この凡俗の世界がそのままで真の世界であり、逆に、真の世界などと言っても結局この凡俗の世界以外にはないのだ、と説くのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;凡俗の世界と真の世界の間に距離はない。両者は一つである。「即」の思想とはこういう考え方を指す。この穢土がそのままで浄土であるというのもまさに「即」の思想である。（もちろん、凡俗の世界は文字通りの凡俗には凡俗としか見えない。そこに真の世界が見えてくるためにはやはりとんでもない修業が必要になるわけで、結局プロセス抜きには考えられない。が、そうした点については割愛する）。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■日本の底流に流れる現状肯定の考え方&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;以上、本覚思想と即の思想について見た。そこにおいては、目指すべき目標との距離がどんどん縮まり、最後は消滅する。すなわち一つには、ここではない、今ではない、わたしたちと隔てられた異質などこかに、目指すべき目標があるという生の構造が消滅する。いま一つには、目指すべき目標と現状との区別が消滅する。残るは、今ここにそのままで真理が出現するという現状肯定である。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;ある異質な何ものかを目指して、1ステップごとに登って行くというヨーロッパ哲学思想と比べるとき、これがいかに正反対の考え方であるかわかるであろう。ヘーゲルに「精神現象学」という書物がある。感覚的確信から出発して絶対知に至る精神の運動をながながと記述した分厚い本である。これなども、上記の日本思想にすれば、「感覚的確信即絶対知」と、一言で終わってしまう。あんな太い本はまったく必要ない。身も蓋もないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;もちろん、現代の日本人が本覚思想だの、即の思想だのを自覚しているわけではない。しかし、それは日本列島に生まれ育った者の生の場に底流のように流れ、影響を与えていると思われるのである。そこで、次に、その底流を現代の日本の思想の中に探ってみたい。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>社会・歴史</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-12T19:12:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-20f5.html">
<title>ヨーロッパ思想の根底にある目的志向</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-20f5.html</link>
<description>なぜ、わたしたち近代の人間は生きる意味や方向性を問わないでは生きられないのか。そ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;なぜ、わたしたち近代の人間は生きる意味や方向性を問わないでは生きられないのか。それは、ひょっとして近代の発祥の地であるヨーロッパに何らかの起源があるのではないか。そんなことを考えたのであった。（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-6489.html&quot;&gt;「生きる意味」を問うのは近代に特有なこと？&lt;/a&gt;」）。そこで、ヨーロッパの思想について少し考えてみたい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■ヨーロッパ思想に内在する「距離」&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;方向性とは、目的の存在を含意している。ここではない別のところに、あるいは今ではない未来に、目指すべき目的があって初めて方向性というものが生じる。そして、それが意味となる。この空間的・時間的距離こそが方向性の一つの本質である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ヨーロッパ思想は、実はこの距離を担保し続けてきたとわたしは考えている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;よく言われるように、ヨーロッパ思想には２つの源流がある。ヘブライズムとヘレニズムである。結論を言ってしまうと、ヘブライズムが他者性あるは異質性にかかわる思想の源流となり、ヘレニズムが階梯にかかわる思想の源流となった。そして、この他者性と階梯こそが件の距離を担保したのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■ヘブライズムにおける他者性の思想&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;まず、ヘブライズム。膨大な旧約聖書の中で、一か所だけ引こう。申命記５・２４－２７である。モーセが十戒を語ったときにイスラエルの民がモーセに言ったとされる言葉である。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞ききました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼きつくそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します。」&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;十戒は神がモーセを通してイスラエルの民に語った言葉である。なぜ、モーセを通してなのか？　人間が神の声を直接聞いたら死ぬと信じられていたからである。このあたりは、日本人には非常にわかりずらいのだが、そこには神に対する想像を絶する恐れがある。実際、十戒は火の中で語られた。神の声は火の中から響いたのである。その火は民を焼き尽くす火でもある。うかつに近づき、万一直接その声を聞こうものなら、火で焼き尽くされ命を落とすことになる。神と人間とはそれほどに深い亀裂によって隔てられているのである。（この点、出エジプト記１９・１０－２２の方が詳しい。参照されたい）。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;人間は神に安易に近づくことはできない。近づくというのなら、死をも覚悟しなければならない。神は人間にとって決して慣れ親しむべき存在ではなく、本質的に異質な存在であり、絶対的な他者なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;そもそも旧約とは古い契約のことで、それは神との契約の書なのである。この契約という考え方も日本人にはなじまない。そもそも慣れ親しんだ間柄では契約などしないであろう。手の内がわかっている仲間同士では契約は不要である。必要になるのは手の内がわからない外部の者との間においてである。つまり、異質な者、仲間でない者、つまり他者との間で初めて契約を結ぶことが必要になるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;村落共同体的関係性が中心であった日本では契約という考え方はあまり発達しなかった。しかし、異質者との遭遇が頻繁であったヨーロッパは契約社会でもある。そして、その原型がこの神との契約という考え方にある。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;つまり、神は決して「仲間」ではないのだ。それは異質者であり、決して慣れ親しめない者であり、徹底的な他者なのである。そして、ここにヨーロッパ思想を貫くもっとも根本的な考え方の一つがある。神は人間にとって不可欠な存在である。たが、それにもかかわらず、それは決して人間社会の中に取り込むことができず、人間の外部に異質者としてとどまり続ける。このような絶対的な他者を、他者であるにもかかわらず思考と生の中心に据えなければならない、ここにこそヨーロッパ思想の一つの核心があるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■ヘレニズムにおける階梯の思想&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;さて、次にヘレニズム。プラトンについて考えてみよう。「国家編」の中に有名な洞窟の比喩がある。真理（イデア）の認識を、洞窟という暗闇から一歩一歩這い出て最終的に明るい太陽の光に接する歩みに譬えた話である。この場合、洞窟の中が肉体にとらわれた通常の人間世界、太陽が善のイデア（要するに神）を意味している。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;プラトンの場合、旧約聖書ほどに神との断絶は決定的ではない。旧約の場合には、モーセという特別な存在を介しない限り、人間にとって神との接触は死を意味した。つまり、接触不可能なのである。しかし、プラトンの場合、確かに神は洞窟から見れば遥か上方の別世界に属するものの、人が神へ至る道筋は存在しているのである。その歩みがどれほど困難に満ちていようと、一歩一歩登って行けば、神の光にあずかることは不可能ではないのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;ここにプラトニズムの本質がある。神との断絶は決定的ではないものの、しかし、その距離は遠い。神に至ることは不可能ではないが、その道は険しい。それゆえ、一歩一歩段階を踏んで近づいていかねばならない。幾重もの段階を踏んでようやく神に至ることも可能になるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;すなわち、階梯の思想である。ヘレニズム思想の中心をプラトニズムにおくとするなら、階梯の思想こそがその本質である。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■欧米的合理性の本質&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;かくして、ヨーロッパ思想の核心にはヘブライズムに由来する他者性の思想とヘレニズムに由来する階梯の思想があると言える。両者ともヨーロッパ思想の核を形成するが、哲学および神学の歴史を見る限り、その時々で、重心が他者性の思想に行ったり、階梯の思想に移ったりしてきたと考えられる。たとえば、アウグスティヌスは他者性の思想の方に重心があるのに対し、トマス・アクィナスは階梯の思想に重心があるといった具合である。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;アウグスティヌスやトマス・アクィナスといった古めかしい名前を出したが、なにも中世に限られることではなく、この本質は現代にいたるまでヨーロッパ思想の根底に生き続けていると思われる。さらには政治家からビジネスパーソンに至るまでヨーロッパの人々の考え方の根幹に影響を与え続けている。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;つまり、こういうことだ。目指すべきは今こことは異なる（異質性）別のところ、あるいは未来にある。そこへ至るのは困難であるとしても、確実に到達できるプロセス（階梯）が存在する。そのプロセスを定義し、その歩みを実行すれば、必ず目的に到達できる。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;これが、欧米的な合理性の一端なのである。目指すべき理念と目的を掲げ、そこへと至る最も有効な道筋を決定し、それを実行する。これが欧米的合理性であり、彼らの持つ戦略性もここから生まれてくるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;実は、日本が苦手とするのは、この合理性と戦略性なのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p dir=&quot;ltr&quot; style=&quot;MARGIN-RIGHT: 0px&quot;&gt;次に、そのことを日本の思想の中に探ってみたい。ちなみに、先取りして言うなら、ヘブライズム的他者性に対しては本覚思想が、ヘレニズム的階梯に対しては即の思想が対置できるであろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>社会・歴史</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-06T01:09:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-6489.html">
<title>「生きる意味」を問うのは近代に特有なこと？</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-6489.html</link>
<description>先のエントリー（「生きることに意味はあるのか？」）で、香山リカの「しがみつかない...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;先のエントリー（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7848.html&quot;&gt;生きることに意味はあるのか？&lt;/a&gt;」）で、香山リカの「しがみつかない生き方」に関連して、生きることに意味があるか？と問うた。答えは、結局、人による、ということになろう。好きなこと（ひと）ややりたいことに出会った人は、人生に意味を感じられるだろうが、でなければ、どこからも意味はやってこない。高度成長期のように、日本全体が一つの方向性を持っていた時代とは違い、社会が意味を調達してくれることもない。生きる意味は自分で調達してくるしかない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■70年代以降失われた「生きる意味」&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;少し考えてみよう。人間の歴史の中で、生きる意味を自前で調達してこなければならない時代があっただろうか？　わたしたちが生きているこの社会は、過去の社会と比べて何が違うのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;わたしは大阪万博の時に小学校６年だった世代だ。小学生の間が高度成長期。そして、中学生になって以降、日本社会はある種の崩壊に見舞われていった。６０年代の革命幻想が完全に消滅したのが７２年の浅間山荘事件。高度成長が低成長へ転落したのが７３年のオイルショック。それまで自明であった日本社会の方向性が、急激に目指すべき目標を失っていったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;意味とは方向性のことである。意味があるとは、生きる方向が明確で、かつ希望があるということだ。意味がないとは、生きる方向があいまいで、どちらに向かっていけばいいかわらかず、よって希望が見えないということだ。日本社会は７０年代以降、急速に意味を、方向性を失っていった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;おそらく、わたしの世代は、思春期に「生きることに意味などない」と知らされた最初の世代であろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが、この問題は考えている以上に根深いと思う。おそらく、「わたしの世代」などという言葉で片付けられるようなことではない。日本列島上で営まれてきた歴史の中に深く潜行してきた問題だと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■そもそも明治以前の日本は？&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そもそも、高度成長期とは戦後復興に端を発する日本の再近代化であったが、考えてみればこの「先進国に追いつき追い越せ」という動きは、何も戦後に始まったことではない。戦前も日本は「一等国」をめざして駆り立てられてきた。日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りと小躍りし、列強との競り合いの中でついには敗戦に向かって突き進んでいったのではなかったか。さかのぼれば、明治期の富国強兵、殖産興業以来、日本は戦前も戦後もひたすら「列強」、つまり欧米諸国の仲間入りを目指してきたのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;欧米諸国に追いつき、そして追い越すこと。ただそれだけが日本の「方向性」と意味を支えてきた。結局、そういうことではなかったか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、明治以前はどうだったのか？　日本列島に生きる人々にとって方向性とか意味はどのような姿をとっていたのであろうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;こう考えると、ひょっとして、生きる意味とか方向性といった問題は、近代に特有なものではないかという疑いが生じてくる。なぜなら、前近代の共同体社会では生きることの何であるかは自明なこととして共有されており、誰も事あらためて問いはしなかったと考えられるからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■前近代における「生きる意味」&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;親孝行をし、自らも子孫を残し、村のために尽くし、死ねばご先祖のもとへ逝く。それは多くは自明なものであったろう。もちろん、こうした生き方に反す者もいただろうが、そうした者は共同体から排除されただろうし、少なくとも、この生き方そのものが根底から疑われることはなかったであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;実際、「なぜ親孝行をしなくちゃならないんだ」とか「なぜ、結婚しなくちゃならないんだ」といった物言いは近代に特有なものであって、こうした個人主義的な理性使用は前近代のものではないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、あえて生きることの方向性が問題になり、それを問わないではいられないというのは近代人の宿命といえるかもしれない。しかし、そうだとしても、前近代に戻れるわけでもないのであってみれば、わたしたちは、生きる意味と方向性に取りつかれた者として生きる以外ないであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、考えてみれば、近代とはそもそもヨーロッパに端を発するものである。とすれば、意味や方向性もヨーロッパに何らかの源を持つのではないだろうか。実際、ヨーロッパでは日本とは事情が異なり、前期代においても意味や方向性の原型となるものが脈々と受け継がれてきたと思われるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;次はその点について考えたい。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>社会・歴史</dc:subject>

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<dc:date>2009-09-27T20:49:57+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7848.html">
<title>生きることに意味はあるのか？</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7848.html</link>
<description>香山リカの「しがみつかない生き方」がベストセラーになっている。わたしも、新聞広告...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;香山リカの「しがみつかない生き方」がベストセラーになっている。わたしも、新聞広告にあった「＜勝間和代＞を目指さない」にひかれて読んだ。「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f1e3.html&quot;&gt;本当に「無趣味」はおすすめか？&lt;/a&gt;」等で書いたが、キャリアを磨いてビジネス上の成功を目指すといった生き方を一義的に奨励する言説にはどうも違和感を感じる。その象徴としての＜勝間和代＞。それを「目指さない」と言う。興味をひかれた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■生きることに意味はない？&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第6章には「仕事に夢をもとめない」というのもある。「夢をめざせ」といった煽りが横行する中で、ポイントを衝いている。同感である。（たとえば、「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-866f.html&quot;&gt;なぜ「好きなことを仕事にしよう」と言われるのか？&lt;/a&gt;」）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが、この本を読んでいてさらに本質的な次元について考えさせられた。第9章の「生まれた意味を問わない」である。わたしには、これこそが本書で最も根本的な次元でないかと思われる。仕事に夢を求めることはもとより、恋愛にすべてを捧げようとするのも、自己ＰＲをして他者に認められようとするのも、白黒はっきりつけようとするのも、子どもにしがみつくのも、お金第一になるのも、結局、生きている意味が欲しいからではないのか。何でもいい、自分の人生に意味があると思いたいからではないのか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いま、日本列島に暮らす人々にとって、もっとも一般的で広範な問題は、この「生きている意味が見当たらない」というとではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「生きることに意味があるか？」と問うたとしよう。（こんなややこしい問いを問わなくて済む人は幸せだ）。さて、その答えは？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;答えがこれほど自明で、しかも言うのをはばかられる問いというのも珍しいのではないかと思う。あまり大きな声では言えないが、当然、答えは、「ない」、であろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「あるわけないじゃないか、生きる意味なんて」ということだ。しかし、何と言いにくい回答か！　世の中には本当のことを言ってはいけないということもある。こうしたこともあまり声高に言わないほうがいいのだろう。しかし、香山リカはあっさりと言ってのける。「なぜ生まれた価値、生きる意味が必要なのか」と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;彼女はこの本全編を通して、ひたすら、生きる意味を求めるな、そんなこと求めるから何かにしがみつかなきゃならなくなる、で、苦しくなる、病気になる、やめたほうがいい、生きる意味なんていらないじゃないか、と語り続けているように感じられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、その言葉にすんなりと従える人はどれだけいるだろうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■自前で調達しなければならなくなった「生きる意味」&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「生きることに意味などない」という言い方には、少し解説がいる。私見では「意味がない」というのは、社会が生きる意味を提供してくれないということを指している。昔、高度経済成長期という時代があった。そのころは、会社で働いているだけで日本の発展のために尽くしていると思えた。現に、本当に日本はどんどん豊かになり、生活環境はみるみる良くなった。社会に帰属しているだけで生きる意味を感じられたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところが、そんな時代も終わり、特に90年代には平成不況の暗闇の中で方向性が全く見えなくなった。どっちに希望の光があるのか全くわからない。働いても働いても、どこへ向かっているのか、この先に良いことがあるのか、そもそも日々の苦労に何か意味があるのか、まったく見えなくなった。社会が生きる意味を供給してくれなくなったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、意味は自分で調達する以外ない。実際、自分で調達することに成功した人たちもいる。その代表が「好きなことを仕事にした」人であろう。小さいころから動物が好きで好きで、猛勉強の末獣医になった、とか。昔から機械いじりが大好きで、工学部を経てエンジニアになった、とか。今は天職だと思っています、といった具合である。こうした人たちは確かにいる。彼らは仕事に喜びを見出し、生きがいを感じ、それゆえ生きる意味を見出している。生きる意味は、社会が供給しなくたって、自分で調達できているのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが、これは思うようにコントロールできることではない。子どものころ動物を好きになったのは、意図してではないだろう。いわば、気が付いたら好きだったということに違いない。特に動物好きでもない人が、計画的に動物好きになって獣医になるなどということはできまい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;つまり、「好きなことを仕事にする」ことは意図的、計画的に達成できることではない。とすれば、それは、ほとんど偶然に巡り合う以外ない、ということになる。子どものころたまたま子犬を飼って動物が好きになったといった具合で、たまたま何かのきっかけで思いもよらずそうなる、といったことが必要になる。ということは、その「たまたま」が訪れない人には永遠に「好きなことを仕事にする」ことはできない。好きなことを仕事にできない人は、これはもう、どうしてもできないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;敷衍して言えば、生きる意味の調達は偶然のめぐり逢いによるのであって、その僥倖が訪れない人は、永遠に生きる意味を調達することはできないのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■「生きる意味」格差社会&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;かくして、いわば、「生きる意味の獲得格差」とでも言うべき格差が生じる。生きる意味を調達できた人は、ポジティブに希望を持って生きがいある人生を歩んでいける。しかし、調達に失敗した人は、生き方が定まらず、居場所がなく、空しく、だから、香山リカが言うように、何かにしがみつき、一歩間違えばメンヘルになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いまは経済格差が深刻だと言われる。しかし、実は、この「生きる意味」格差のほうがよほど深刻ではないかと思う。生きる意味がない、方向性がないという事態こそがいまの社会のもっとも根本的な次元に横たわっている。そのことを知っておくことは重要だと思うのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>
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<dc:date>2009-09-13T01:57:55+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-e9b6.html">
<title>生活の切実さと政治的関心</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-e9b6.html</link>
<description>政治的・社会的問題に関する関心は、豊富な情報によって喚起されるか？　残念ながらそ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;政治的・社会的問題に関する関心は、豊富な情報によって喚起されるか？　残念ながらそうはいかないのであった。なぜなら、情報は、それだけでは何ものでもないからだ。それがまさに政治的・社会的問題として姿を現すかどうかは、わたしたち一人一人が身を置く文脈にかかっているのである。（「&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7249.html&quot;&gt;政治への関心を生むのは生活の文脈&lt;/a&gt;」）。では、わたしたちの文脈がどのようになれば、それは姿を現すのであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■情報と知識という文脈&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;まず、国民の多くは政治的なものに本質的関心を持っていないという仮定に立ってみよう。すると、わたしたちが身を置く文脈には政治的問題を出現させる前提がさしあたってない（あるいは希薄である）ということになる。とすれば、政治的なものを活性化させるような文脈はいかにしてもたらされるかが当面の問いとなろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;まず、そうは言っても、情報や知識の豊富さは重要な文脈となる。なぜなら、豊富な情報や知識が、政治問題を理解する基本的リテラシーを形成し、向上させるからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たとえば、現在の地方補助金が霞が関のひも付きで、無駄な出費の元凶の一つだと知ることにより、地方自治を巡る改革がなぜ言われているのか、その一端を理解することができるであろう。あるいは、戦後の再配分からネオリベ、さらにブレア政権的第三の道という世界的な流れを知ることにより、小泉ネオリベ以降の日本の政治を理解するといったこともあろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;政治に関して豊富な情報や知識を得れば得るほど、現今の政治状況を理解しやすくなり、それが理解できればさらに文脈が豊かになって新たな知識や情報を得やすくなる。こうしたいわば解釈学的循環によって、わたしたちの生活圏に政治的なものがより一層入りやすくなるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;確かにこうしたことは否定できない。必要なことでもある。しかし、それで十分か？　答えは否である。なぜなら、情報も知識もそれだけでは「政治的なもの」にはなり得ないからである。政治的なものは単なる情報や知識とイコールではない。しかるに、情報や知識はどこまで行っても情報・知識にすぎない。情報・知識のレベルでどれだけ文脈が豊かになっても、それで政治的なものが出現するわけではないのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■情報・知識と切実さの結合&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;では、何が政治的なものを出現させるのか？　それはわたしたち一人一人の生活におけるある種の切実さであると思う。たとえば、年額約３０万円の子ども手当てが支給されるという話を聞いたとき、子どものいない夫婦や成人した夫婦にとっては、別段意味のないおしゃべりと感じられるかもしれない。しかし、二人目の子供ができて、少ない収入でどうやって育てていけばいいのかと思い悩んでいる夫婦にとっては、それはこの上もなく大きな意味を持つであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それぞれが生活の中で置かれている状況、それこそが「文脈」となる。苦しさ、希望、不安、夢。そうしたものが生活の中には深く浸みている。それがまさに「文脈」なのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そうした「文脈」が政治に関する情報とある瞬間に結びつく。その時その情報は、ほかでもないまさに「政治」としての姿を現すのである。それは単に情報・知識レベルの理解ではない。むしろ、わたしの生活を変える何ものかとして出現するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その「文脈」は人によって違う。どの情報がどの「文脈」と共振するのか、人それぞれである。同じ情報も、さまざまな「文脈」と呼応しながら、多様な意味を持つことになろう。同一の「政治的なもの」も、「文脈」に応じて、少しずつ違った姿で現れることになろう。しかし、いずれにせよ、そのとき「政治的なもの」は、各人の生活に重大な意味をもって出現し、生活を変容し、駆動していくことになるのである。このとき政治はわたしたちの生活圏に実際に侵入し、わたしたちと不可分のかかわりを持つことになるのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;情報・知識レベルの「政治」が無意味だというのではない。このレベルで文脈が豊かになり、「政治」に対する理解が深まることは極めて重要である。しかし、それもこれも、まず「政治的なもの」がわたしたちの生活を捉えていてこそ意味があるのである。それがなければ、単に知的な遊戯にすぎないであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;わたしたちの生活的文脈と政治的情報が呼応したとき、それを見過ごさないことが重要である。何気なく通り過ぎるに任せるではなく、確かに呼応したことを自覚的に捉え、自分の生活にとってどのような意味があるのか顧慮するのである。そのとき、その政治的情報はわたし自身の政治的問題として現れてくるであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして、政治的問題が生活圏に侵入してきたことにより、情報・知識レベルで政治的リテラシーを豊かにしていくことへ動機づけられて、次第に普遍的な政治課題に目が開かれていくことになろう。いま日本が民主主義を獲得していくためには、こうした生活に立脚する接近が不可欠であると思うのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

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<dc:date>2009-09-12T01:28:35+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7249.html">
<title>政治への関心を生むのは生活の文脈</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7249.html</link>
<description>わたしたちは日々の生活に精一杯で、政治に対して本質的関心をなかなか持てない。生活...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;わたしたちは日々の生活に精一杯で、政治に対して本質的関心をなかなか持てない。生活圏が内閉化しているため日本全体の問題や世界の問題が入り込んでこない。そこに、民主主義の危機がある（&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-efef.html&quot;&gt;「「近代的個人」になれない日本人と民主主義の機能不全」&lt;/a&gt;）。しかし、本当だろうか？　テレビをつければキャスターが何やらしゃべっているし、コメンテーターと言われる人たちもいろいろ教えを垂れてくれている。新聞でもネットでも情報は山ほどある。「入り込んでこない」どころではない。わたしたちは広範な問題にいつでも触れることができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■文脈に依存する情報&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そう、情報はあるのだ。もちろん、記者クラブ制度によって肝心なところがそぎ落とされた情報かもしれない。しかし、何もないわけではない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、情報によって日本や世界の問題に触れる、これはこれで本当か？　情報を目にしただけで、政治的問題に触れたことになるのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それを考えるにはまず情報とは何であったかを確認しておく必要がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c92b.html&quot;&gt;「情報の二面性、事実と解釈」&lt;/a&gt;で書いたように情報はそのままで事実というわけにはいかない。情報はデータから成るが、そのデータは確かに事実に立脚する。少なくとも事実かどうか検証の対象となる。だから、情報も一面は事実を表している。しかし、他面それは一定の文脈からなされた解釈と言わねばならない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-f356.html&quot;&gt;「情報分析とは何か？　まずデータとは？」&lt;/a&gt;で見たようにデータといえども、データを集めるという行為が前提となる以上、すでに解釈が入っている。まして情報はその本質部分は解釈なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ポイントは、「文脈」にある。７０年安保闘争ぐらいまでは社会を見るのにいわば「神」の視点があるかのような幻想があったと思う。マルクス主義を中心として、知識人は絶対的な正義を体現していて、彼らの語ることはそのまま現実を忠実に写していると思われた。情報はそのまま現実であった。しかし、７２年の浅間山荘事件などによりこうした幻想は解体し、知識人が「神」の視点など持ち合わせていないことが露わとなった。彼らにも何らかの「文脈」があり、特定の視点に立っていることが理解されてきたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;人は常に何らかの文脈の中に組み込まれている。どの文脈に属するかによって、同じデータがまったく違う「現実」を浮き彫りにすることもある。立つ視点、立場の違いが同じ事実からまったく異なる現実を引き出すのである。よく言われる例であるが、デモのとき、デモ隊の側から襲ってくる機動隊を写すのと、機動隊の側から突進してくるデモ隊を写すのとでは、同じ事実でありながら、まったく正反対の政治的メッセージを持つことになるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;発信する側だけではない。情報を受け取る側も文脈によって左右される。そもそも、受け手も何らかの特定の文脈に属している。その文脈が受け取った情報を何らかの仕方で変容させる。言い換えれば、受け手は受け手で情報を再度解釈するのである。もちろん、解釈と言っても、情報に含まれてもいないことを無理やり引き出すことはできない。景気指数が悪化していると言っているのに、好景気だ、と解釈することは不可能である。しかし、景気指数が悪化しているということ自体をどう捉えるかはさまざまである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;情報リテラシーが一定ある人なら、そもそもこの指数が何を代表していて、どの程度景気実態を反映しているのか等、批判的に評価するかもしれない。あるいは、売り上げの大半が中国に依拠していて、国内の景気にほとんど左右されないような業種の人にとっては何の重要性もない情報だが、国内市場に１００パーセント依存しているような業種の人にとっては死活を決する情報だ、といったこともあろう。つまり、属している文脈によって同じ情報でも、その意味や価値、信頼性といったものが大きく異なるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■文脈こそが政治的関心を左右する&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ということで、話を元へ戻そう。情報がこうしたものであるなら、日本や世界の政治的・社会的諸問題の情報が日々さまざまなメディアを通して入ってくるというとき、実際には何がもたらされているのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それは、文脈によって左右されるのである。選挙前の話になるが、たとえば、世論調査の結果、自民党の支持率が大きく下がり、民主党は上がったという情報を得たとしよう。さて、どんな反応が想定されるであろうか。とにかく今までの体制がいいと信じ切っている強烈な自民党支持者であれば、不安や落胆に捉えられるかもしれない。しかし、政権交代の切望する熱烈な民主党支持者であれば、小躍りして喜ぶであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;あるいは、支持政党はないが、ゲームを見るように政局を観察してきた人であれば、早速分析と予想にいそしむかもしれない。ビジネスの関係で景気動向に関心を持っている人なら、民主党の景気対策を調べにかかるであろう。しかし、特に政治に関心がなく、その必要性もない人なら、その情報は右からら左へ素通りするであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;情報自体に固有の価値があるわけではない。それを受け取る人の文脈によってその価値はさまざまに変容するのである。重要なのは文脈である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、政治が真にわたしたちの生活圏に侵入してくるべきであるとするなら、わたしたちの属する文脈はどのようなあり方を持つべきなのか。わたしたちの文脈のどのような点に注視すれば政治との本質的かかわりが生まれるのか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学・思想</dc:subject>
<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

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<dc:date>2009-09-05T02:05:10+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-efef.html">
<title>「近代的個人」になれない日本人と民主主義の機能不全</title>
<link>http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-efef.html</link>
<description>「日本で本当に民主主義が可能なのか？」で書いたように、わたしたちの生活は内閉化し...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-d329.html&quot;&gt;「日本で本当に民主主義が可能なのか？」&lt;/a&gt;で書いたように、わたしたちの生活は内閉化し、断片化されているため、（つまり、関心が極端に偏ってしまうため）、わたしたちは「政治」的な問題に本質的な関心をなかなか持てない。政治的関心が持てないわたしたちというのは、近代が想定していた「個人」とは何か別のものだ。トクヴィルが聞いたら、こんなの、個人じゃない、というだろう。言いかえれば、わたしたちは、近代の民主主義が想定した個人にどうしてもなれないのである。しかし、それはなぜだろうか？　たまたまか？　それとも何か不可避な理由があるのだろうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■「普遍的理性」の使い手としての個人の退潮&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;カントが言う個人の眼目は、古き共同体から自立している点にある。なので、古いしがらみや利害から離れて、普遍的な理性を行使できるのである。確かにわたしたちも古き共同体から自立していると言えよう。いや古き共同体を失い、自立へと余儀なくされていると言ったほうがいいかもしれない。まあ、いずれにせよ、多くの場合、古き共同体内部で生きているのでないことは確かだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、だからと言って、その代わりに普遍的理性の使い手になっているかと言われれば、いささか疑問である。なぜなら、普遍的理性なるものが、すでに自明ではなくなっているからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ちょっと抽象的な話になるが、哲学を引き合いに出そう。２０世紀の哲学は、ひたすら「普遍的理性」の素性を暴きたててきた。誰でもいいが、たとえばヴィトゲンシュタインを考えてみよう。前期ヴィトゲンシュタインは確かに普遍的理性に相当する思想を展開した。言語と世界の構造が一致している（写像理論）がゆえに、言語は世界を確実に指示できる（直示的定義）と考えられた。（逆に、世界との写像関係を持たない言語は無意味である）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、後期になってヴィトゲンシュタインは、こうした直示的定義による言語使用は単に多くある言語ゲームのうちのひとつにすぎないと考えた。宗教的な言語使用も、詩的な言語使用も、科学的な言語使用も、それぞれ対等な言語ゲームである。そのうち科学的な言語ゲームだけが特権的優位性をもち、他の言語ゲームを支配するということは正当化できない。単にゲームの規則が異なるだけで、特定の言語使用を絶対化する理由はない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、「普遍的理性」（理性的言語使用）をすべてを支配する特権的能力と考えるわけにもいかない。それゆえ、「普遍的理性」の使い手としての個人は必ずしも自明ではないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ならば、共同体も失い、「普遍的理性」に頼るわけにもいかないわたしたちは、どのような事態に立ち至るのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;■共同体＝普遍性の喪失と民主主義の危機&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、考えてみれば、日本にあっては、そもそも欧米的な普遍的理性などはじめから本質事ではなかったかもしれない。むしろ、日本においては共同体こそが一定の普遍性を担保してきたのではないだろうか。共同体においては子ども、親、兄弟、親類、先祖、また地域集団の人々など、一定の範囲の人々と価値観を共有することになる。この共有された価値観こそが入れ子状に広がって行って、一定の社会的「普遍性」を構成するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とすれば、共同体を失うことと普遍性を失うことはイコールである。では共同体＝普遍性を失った人間はどうなるか？　断片化する以外ないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その意味で、わたしたちの生活圏の断片化は不可避である。過去において、兄弟、親、祖父母、親戚、隣近所、といった広範な結びつきの中で統一性を保っていた自己は、いまや、マンションや新興住宅地のような互いに素性のわからない環境で、自らのうちに、核家族的生活のうちに内閉化しがちである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、会社においても、高度経済成長期までは、日本の発展のために働いているといった大きな物語と接続していたのに、いまや、目の前の顧客と日々の生活へ目をやるのに精一杯で、自分の会社や業務に内閉化しがちである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分の属する共同体や日本の発展といった大きな世界との接続を切断され、家庭にしろ、仕事にしろ、趣味にしろ、隣近所にしろ、さまざまなものが断片化し、偏重化している。この内閉性は、狭い世界に閉じこもって外の広い世界に開かれないというわたしたちの抜きがたい傾向を助長する。そのため、日本の政治をどうするとか、世界の金融危機をどうするかなどという、広範囲な問題は迂遠なものとして生活圏に入り込んでこない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そもそも、いわゆる欧米では、自生的共同体が解体して行っても、何らかの仕方で普遍性や公共性への接続が重要視され、そのための努力がなされる。（たとえば、アメリカのアソシエーショニズムによる組織的相互扶助）。しかし、日本では、共同体の解体といっしょくたに「普遍性」まで解体し、残るのは日常生活への内閉化だけなのである。そのため、本質的な政治的関心が生まれず、民主主義が機能しないのではないか？　と思うのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;では、この危機にどのように対処すればいいのか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

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